今日は頑張るケン…

○爽やかな青空が広がる朝、今日は翻訳の続きを頑張ります。が、その前に。「この精神構造、どうしても理解できない」というタイトルの愚痴。どうでもイイと言えばどうでもいいけど、ね。
○貸していたセガンの原著を至急郵送で送り返して欲しいと伝えた。これまでも会って用件を満たそうとしてきたが、なんだかんだと会う日を変更されたことがたびたびあったので、そんなことに神経を使いたくないから、郵送を依頼したのだ。だが、「大切なものだから郵便事故でもあると大変なので、会って手渡したい」という。事故があればそれはその時のこと、とにかく郵送での返却をと最終回答。
 …で、やはりというか、郵送返却も期日は大きく遅くなり、添え書きもないただ現物を投げ入れただけ。ぼくは直ちに、メールで、郵便物が届いた旨を伝えた。数日後にメールで「事情を説明申し上げます」とくどくど郵送が遅れたことを伝えてきた。そして結びに、「これで郵便でお土産をお送りしても大丈夫だと分かりましたので、後日送ります。」とあった。
 セガンの原著郵送は土産郵送の実験台となったのだなあ。
 こう綴ると「だからメールではきちんと説明し理解していただくには無理があるのでお会いして…」と反論あること必定だが、書き言葉でもって自己を論理的に説明し読み手を納得させることを仕事とする立場にあるのだが。「土産ですのでお手渡しをしたい、直接ご挨拶したい」だけの言葉でよし、それでも会うことが叶わなければ「本来ならばお会いしてご挨拶もうしたいのですが、ご都合がおつきにならないようですので、やむなく郵送いたします。」でいい。郵便で送っても大丈夫だと分かった、という表現は、常識の範囲をかなり逸脱しているのだ。
○今日のfbより
 毎年5月の最終週が来ると、「パリ・コミューン」を思い起こす。そして2014年拙著の記述はあれでよかっただろうか、と思う。そんな思いも兼ねて、今朝、FBに、投書した。
1871年5月末のパリでは「血の一週間」と呼ばれる凄惨な戦いと政府軍による大量虐殺(無裁判の即刻公開処刑)がなされた。いわゆる「パリ・コミューン」の終焉である。
 その歴史的事実をパリ市内の広場に命名している。また最終戦闘と虐殺の地ペール・ラッシェーズ墓地の外壁にはモニュメント彫塑、内壁には「連盟兵の記念碑」が掲げられている。
 ちょうど今の時期、手植えられたバラが真紅の花を開く。まるで銃殺された人々の流血の様のようだ。世界各地から訪れる人が多い。」
 添付した写真の一葉にRikaさんからコメントが寄せられた。ありがたいことだと思う。写真とコメント、コメント返しを以下に。

Rika Takahasi 人の形に見えるなぁ~
川口 幸宏 雨ざらしになり続けて数十年経っていますので、多くの人の姿がすり切れた状態になっていますが、近づいてよく見ると、老若男女が10体以上彫られています。
Rika Takahasi 彫ってあるんやぁ~
アタシは又 自然に出来たんかと思ってチョット怖かったわっ汗
川口 幸宏 パリの建物の壁の基本になっている石灰石を四角形に切って重ねたのを彫塑のキャンバスにして、戦闘で壊された建築物と戦闘で殺された人々とを象徴して彫られた、パリ・コミューンという「事件」を表現した大きな作品です。道路と墓地の塀との間に挟まれて創られた市民公園の中に展示されています。
川口 幸宏 中央のはっきり人体と確認できるのは女性像です。フランスという国を象徴しています。この女性が銃殺されて仰け反って天を仰いでいます。「フランス共和国は殺された」というわけです。
Rika Takahasi へぇ~っ
又1コ勉強になったぁ~
川口 幸宏 笑 よかったです。
Rika Takahasi もっと色々 教えてなぁ~
○精神の安らぎのためにこのところ古い日本映画(ほとんどが時代劇)を観ている。今夜は、「宮本武蔵」。片岡知恵蔵主演のがあるとは知らなかった。1943年制作。ぼくの生まれた年の作品だ。しかも戦時中。https://www.youtube.com/watch?v=XBHA9m2uroo
セガン1843年論文翻訳 承前
 はじめは私の身体の隅々までを意識させるようにする。まずは、身振りや言葉で(白痴が話すのなら)、頭、腕、脚、胴部、足、手、指、口、目、耳、鼻、等など。彼が共同生活の行動をまだ意識していないようなら、それぞれの器官が充たす機能を、それぞれの必要とされる用途に沿って、尋ねる。子どもがこれらの最初の概念をたやすく理解した場合には、彼が食事のために使う手に注目させることから始め、続いて、腕の右、同じく左、目、耳、頬、さらには頭、顔それぞれの動きで終わるようにして、右左の相関的な概念を彼に教えるようにすればよい。
 子どもはこうした最初の運動によって、彼自身の外観部とその活動を認識する。続いて第2の運動は、指揮的命令ではなく簡単な模倣動作による教授の命令で(à la volonté du professeur)、それぞれの身体部を動かすことに向けられる。ある場合には、個々別々に、ある場合は総体として、ある場合は単独に、ある場合は組み合わせで。たとえば、固く結ばれたままの握り拳、開いたままの指、直角に曲がった足の親指、腰を折るようにとても折れ曲がってくっついた人差し指、手の残りの部分もいわずと知れたこと。頭、顔、頸、上半身、四肢、そして、とりわけ手足、それらが動かされる必要があり、併せて、動作と、部分的に紛れもない体操を含む方法とを、巧みに結びつけ、継続してなされる関連づけによって、子どもの注意を引きつけてなされなければならない。
 話し言葉の発達について別に章を設ける必要があるのだが、ここでは、その点に関わって、一般的に模倣をさせるべき元となるもの、ジェスチャーを巧みに示す根拠がある。それをこれから述べよう。