誉められたデイ・サーヴィス

○今日のデイ・サーヴィス、鼻風邪症状が治まったばかりなので、体力的に大丈夫なのか、少々不安があった。が、結論を言うと、上々のリハビリだった。
○利用者の斉藤さんが炒れるコーヒーをいただき、訓練開始。ペダル踏み前後。この時に、今日はいいですねぇ、スムーズに動いていますね―、と、訓練担当、所長さんから誉められた。これを皮切りに、受動のみの機能訓練を除いて、すべての場面で、誉められた。とくに歩行訓練の時の膝上げが今までになく高く上がったので、ぼく自身も感動。所長さんが施設見学者にぼくの状態経過を説明していたが、施設見学者の視線を熱く感じるほどだった。バーを用いた訓練嫌い(イヤダイヤだと言って逃げるふりをする)はもう当たり前に捉えられている。まあ、一つの役割演技になっているか?ところが今日は、いつものように、いやがる風体、逃げる風体を示しながら、訓練を受けていたが、身体がしなやかに動いていたようだ。担当にも利用者にも、その旨を評価された。何度も「びっくりした」という言葉が重ねられた。
○昨日感じたように、「健常」への緩やかな坂を登っているんだな、と感じた今日。当然、もうすぐ、行き詰まりを感じる下り坂にさしかかるだろう。それも訓練の一つなのだろうと思う。
○午前中の通所機能訓練のあとは、快い疲労が身体を包む。「とにかく体を休めてやって下さい」と整骨師さんに助言されたことを忠実に守ろうと、ボケーとする。そうだ、久しぶりに古いフランス映画を観よう。
 タイトル一覧からマルセル・カルネ監督作品「北ホテル」(Hôtel du nord)を選んだ。ずっとずっと気にしつつ、まだ鑑賞していなかった映画である。
 映画舞台となっている「北ホテル」はパリ・サン=マルタン運河沿いにある。パリ在住時はしばしば散策に足を運んだところだ。運河観光船に揺られたことも数度。運河に架けられている橋の写真を添付した。この橋の右方向に「北ホテル」が撮しこまれているのが見える。

 ここからさらに北に上っていくと、ビルマン公園がある。この公園の一角、東駅向かいに、元ビルマン軍事病院の建物がある。この建物こそ、知的障害教育の開拓者エドゥアール・セガンが10人の知的障害少年たちへの教育に取り組み、大きな成果を上げたところだ。運河から公園を望んだ写真を添付した。木々の間からセガンが知的障害教育に取り組んだ旧男子不治者救済院の正面壁(ファサード)が垣間見られる。

○旧稿再録:サン=マルタン運河案内
 今日は、サン=マルタン運河にまつわるエッセイにご案内しましょう。
 パリ北東部にラ・ヴィレット貯水場(Bassin de la Villette)がある。この貯水場は、ルルク運河(Canal de l’Ourcq)とサン=ドゥニ運河(Canal de Saint-Denis)とを結んでおり、1806年から貯水され、運河を航行する船舶のドッグとして利用された。このラ・ヴィレット貯水場とセーヌ川(La Saine)とを結びつける水路が建設された。ラ・ヴィレットからバスティーユ(Bastille)へと南下し、バスティーユからは地下水路となってラ・セーヌのアルセナル水門(le porte de l’Arsenal)に開いている。ケ・ドゥ・ラ・ラペー(Quai de la Rapée:ラ・ラペー河岸)あたりである。運河の名前をサン=マルタン運河(Canal de Saint-Martin)と言い、1825年に開削された。サン=マルタン運河の開通は、パリの近代工業化を一気に進めることとなる。非常に重量のある工業資材の運搬が可能になったわけで、とりわけ10区、11区、12区(当時のパリ市内)および19区(当時はパリ郊外)に工業・産業地帯を誕生させることとなった。このことによって、パリには大量の工場労働者群が誕生する。ただ、その労働者たちが住むところは家賃や物価が高いパリ市内ではなかった。このことはまた、パリ周辺地の変貌を急速に進めることになる。後のさまざまな革命や運動のエネルギーの源の一つでもある。
ちなみに、エドゥアール・セガンが1841年から白痴教育に取り組んだフォブール・サン=マルタン不治者救済院は、バスティーユから運河を北上しラ・ヴィレット貯水場に差しかかる手前の左岸にあった、レコレ修道院である。現在はレコレ国際交流センターという機関になっている。
 パリ秘書君こと瓦林亜希子君が2000年にパリ入りして最初に居住したのがバスティーユとラ・ヴィレットの中間あたりの左岸のアパルトマンの非常に狭い屋根裏部屋であった。1、2分の距離である。その近くに、第二次世界大戦中のレジスタンス運動の記録を残す活動をしている事務所があり、またマリア・モンテッソリー方式の保育園がある。いずれもぼくの強い興味の対象となった。パリ秘書君と落ち合う場所がサン=マルタン運河に架かっている橋である。両岸にはマロニエとポプラの樹木がうっそうと茂り、運河の深い青色の水が静けさをより誘う。航行する船がやってくるとぼくの楽しみが一気に頂点となる。運河は水門によって堰き止められているから小型のドッグのようである。水門が開けられ船が入る。そして、その水門が閉じられる。船はゆっくりと次の水門に向かっていく。次の水門手前で船は泊まる。閉じられた水門からいくつかの放水口から水が勢いよく噴出する。ドッグはゆっくりと水量を増やしていく。それとともに船が浮かび上がってくる。そうして水門が開かれ船は水門を潜っていく・・・。この光景は、今でも脳裏から離れることはない。
 一方、ぼくが住まいとしていたのは右岸側のサン・タンブロワーズ教会(Église St-Ambroise)近くであったが、運河は地下水路となっているため、その存在にさえ気付かなかった。バスティーユそしてマレ地区への散策に出かけた際に、サン=マルタン運河を目に収めるというのが日常であった。パリ秘書君との待ち合わせの際に見た運河の様を、今度は船上の人となって楽しみたいという欲求に駆られることがしばしばであった。
 この要求を満たすべく、パリ秘書君を伴って、運河上りを数度楽しんだ。バスティーユから観光船に乗りこむ。しばらくは地下水路が続く。この地下航路の壁は光の芸術展がなされていた。日本人作者の名前であったが、美術に疎いぼくの頭にはその名を銘記することはなかった。地下から出たとたん、ぼくが毎度橋の上から眺めていたおなじみの光景が、パーッと広がる。ただ違うのは、川風を受け、飛沫を全身に浴びることである。そして、心的に広がるのは、この運河は観光用に開発されたのではなく、工業・産業用に開発されたのだ、ということである。陸路を馬車で引っ張って資材を市内に運んでいたときの生産量や創られる文化と、水路で大量に工業資材を運ぶようになってからの生産量や創られる文化との間には、かなり大きな落差がある。この落差を生み出すもととなった運河の発案者であり施工者命令者であったナポレオンI世の「近代化」に果たした役割の大きさに、つくづくと、思い知らされるものを感じるのであった。ぼくの専門領域に関しての思いも馳せる。ルソーによって子どもは発見されたと言うが、その子どもたちは、近代工業化のもとで、低賃金かつ過酷な単純労働形態という「新しい子ども隠し」の状態に置かれることになる。すなわち、「子どもも人間である」ことは「人間とは〔権力者・支配者から見ると〕搾取・隷属の対象であり、使い捨ての道具でしかない」とみなされた初期近代社会においては、子どもは絶好の「道具」〔消費財〕であったわけである。運河の開削はこうした新しい「子ども観」をも開削したのだ。こんなことを船上で、川風を受け、飛沫を浴びながら、秘書君に語る。よくもまあ、「逃げられなかったものだ」と、つくづく思う。秘書君には観光ガイドブックには書かれないことに興味関心を強く持つ師匠を持った不運だと諦めてもらうしかないのだが。
 ラ・ヴィレットで船を下りる。帰路は運河沿いに徒歩を楽しむ。その道すがら、きっと「レコレ国際交流センター」の側を通ったはずである。あるいは、ふらふらと、入り口近辺をうろついたはずである。今、パリ地図を見ながら、帰路の道順をたどってみる。「はず」が確信に変わる。この頃に、ぼくがエドゥアール・セガンと出会っていたならば、目を輝かせて時間を忘れて、同センターの周囲を歩き回ったことだろう。そして、セガンが白痴教育を進め、一躍名声を博したその建物に、かしずき、手を添えて当時を感じ取ろうとしたことだろう。
 ・・・エドゥアール・セガンの目に映ったサン=マルタン運河とは、どのようなものであったろうか。彼の故郷クラムシーからパリに運ぶための薪材の集荷場であり、かつ出荷場であった運河を、懐かしんでいたことだろう。運河という名称は同じであっても、方や子どもたちに過酷な単純労働と不健康をもたらす産業を興す源であり、方や子どもたちに創造性と工夫と共同と、そして何よりも健康とをもたらした地場産業を支える源。そして前者が栄えることによって後者が衰退していくという歴史の皮肉。この二つの狭間期に、ちょうど、セガンは立っていたわけである。セガンは、教育の世界で、前者を選ばず後者を選んだ。それをぼくは偉業だと認めざるを得ないのである。

(注:執筆当時の歴史認識の甘さ、とりわけ児童労働に対する認識の甘さを思い知らされる。クラムシーの地場産業への児童労働の参加をまるでユートピアのごとく描いている。アンさん、現実は、そんな甘いもんやおまへんで。清水寛ワールドそのものだなあ、この頃のぼく。)