ちょっと目がつらいな…

○終日セガンの翻訳の予定だが、入力作業で、体力的に続行が難しい状態が断続的に襲ってくる。今日は無理せず、目と体を休めよう。
○今日、翻訳を予定している箇所に、レッシングが出てくる。
「白痴は障害である。それはその通りだ。しかし、レッシングがかつて言い、私が言っているように、人々の幼年期は、個人(白痴の子を指す)の幼年期と同じように、道徳、知性、身体という繋がり(流れ)で、教育・訓練によって障がいが順次改善される、というのではない。」(逐語訳にするとこうなるが…)
 一般の教育の順次性と白痴の教育の順次性は異なる、というのはセガンの1839年第一論文の冒頭に出てくるし、1843年論文でもそれがすでに語られていることだ。 
 こういう文脈でレッシングを引き合いに出されるとするならば、レッシングをきちんと理解しなければならないだろう。ただ、レッシングは白痴教育を論じてはおらず、『人類の教育』という宗教哲学教育論があるのみだから、道徳、知性、身体という順次体系を持つのが教育一般だ、という立場だろう。ここの部分の訳文はきわめて慎重を要する。逐語訳だと大きな誤訳になりそうだ。
 レッシングの『人類の教育』(原文ドイツ語)はサン=シモン主義者の手によってフランス語に翻訳され、サン=シモン著『新キリスト教』等と共に、一書のサン=シモン教義書に収録されている(1832年刊)。訳書はいくつかあるが、安酸敏眞氏のものがぼくにはあうようだ。聖学院叢書。
○ユリが花を開きました。白とオレンジ。

○小さないのちが懸命に生きています。

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