足首の訓練開始

○粋生倶楽部増尾通所。今回からになるだろう、両足首を柔らかく稼働させるための訓練というか施療というかを組み込んでいただいた。予想をはるかに超える施療方法で、具体的に言えば、僕はただ寝っ転がっているだけ。左脚だけかと思っていたら、両足首とも(関節?筋肉?が)硬いとのこと。自宅でできることは何だろうと施療の間、様子を探っていたが、両脚爪先立ちや足首グルグル体操だろうか。自分から進んでやらなければ効果はあまりないのだろうが、やり方を間違えると逆になってしまう。とりあえず、入浴時に足首グルグルと爪先立ちを実践しよう。
○午後は「セガンの1843年」第8号作成作業。すでに、約2ページを割いて、科学アカデミー、医学アカデミーについて調査結果をまとめてある。今日の作業は「閑話休題 ドラポルトなる人物」のタイトルの元に書き進めている。現在のところ、以下。
「セーヌ県・パリにおける白痴教育の公的舞台であったのは、救済院・施療院を統括する「パリ救済院・施療院・在宅看護に関する管理総評議会」(「救済院総評議会」と略称)が管理する各施療院・救済院であった。代表的な機関が、よく知られているビセートル救済院(男子施設)、ラ・サルペトリエール救済院(女子施設)である。
 この救済院総評議会1839年1月9日会議記録(no.80113)に、「救済院総評議会第5部門が、ドラポルト他の者に対し、1836年8月12日、及びその他の日、サン=タントワーヌ施療院での(演劇の)上演その他につき、一人あたり500フランを支払ったことを、救済院総評議会は承認した。」(要旨)とある。
 随分古い過去事例の対価支払いであることの問いはここではさておくとして、「演劇上演」に興味引かれる。病院で、何のために?
 1820年代から1830年代にかけて、病院は、施療目的として入院患者に、娯楽(喜劇、サーカスなど)や労働(農業、クリーニングなど)を提供した。娯楽も患者が享受するだけでなく提供する立場も設定された。これら患者には白痴も含まれるようになる。病院のあり方の一大改革なのである。大病院がまずそのモデルを創りあげ、中小病院がそれに続いていった。前記のサン=タントワーヌ施療院は、監獄や養老院が付設されていないけれども、比較的規模の大きな病院であった。
 さて、前記したドラポルトとはいかなる人物か。残念ながら、フルネームで記録する文書は見当たらない。先の公文書ではle sieur Delaporte(ドラポルト氏)とあるのみである。私がこの人物に興味・関心を重ねたのは、エドゥアール・セガンが「白痴の教師」として雇用されたビセートル救済院内の「白痴学校」で、セガン着任より3年前の1839年末に、教師として雇用されたのがドラポルトである、という記録に接したからである(ポール・ブリュ『ビセートル―救済院、監獄、養老院』1880年刊。この書ではM. Delaporteと記載されている)。この時代の「白痴学校」では、読み書き算の他、絵画、音楽、道徳(宗教)が教えられたという。はてさて、le sieur DelaporteとM. Delaporteとは同一人物か、異なるのか。
 きわめて条件を限ることになるが、セガンの白痴教育開拓期に何らかの社会的活動をした可能性のあるDelaporteなる人物を検索する手法として、そのとっかかりを得るために、私はフランス国立図書館のデータベースサーヴィスを利用することにした。
 Delaporte名で検索にかけると、10ほどの同姓異名が検出された。そのうち生没年が明記されている者は生没年で、そうでない者は作品題名と発表年とで判別することにした。その結果、求める候補者はただ一人Delaporte, Michel(1806-1872)が残った。」
○下娘君がFBで悲痛な叫び。「( ´△`)こんなに多くの人が反対なのになんで進んじゃうんだろう安保法議論…/息子が徴兵されることを心配するのが必要な国じゃないと思ってた。」
本当にそうだよな。今なら阻止出来るぞ。
○本日の最終ページヴユー 64464