昨日の「語り」から

貴志川線貴志駅の初代駅長・たまの訃報。たまとの出会いの日を思い出す。
「2008/6/20
「駅長たま」  
 貴志川線終点貴志下車。ワンマンカーなので、改札はあったとしても無人
 ……んと、
 ……こにゃにゃちは……。あなたがかの有名な猫の駅長さんなのですね。
どこかで聞き覚えのある駅名だと思いました。いただいたお名刺によりますと
 わかやま電鉄 貴志川線
 貴志駅
 スーパー駅長
 たま(TAMA)
 2007年1月5日着任
 2008年1月5日昇進
とあります。
 駅長室にはあとニ頭、暑さでへばっていた。
しばし、周辺をぶらつく。古墳がいくつもあり、散策にはまことにうれしいところ。たんぼには燕が舞っている。ランラン。
 ・・・なかなか目的の学校に行き着かない。
 畦道に入りこんで、出るのを間違えたのかしら。
 暑い。」
○昨日のコケちゃんの支援をいただいての買い物等リハビリは、ぼくにとっての、埼玉大学から今日にいたるまでの、研究者としての生き方の総括にも繋がったような気がする。それは、「なぜセガンか」という課題の「説明」にもなると思う、とコケちゃんに話しした。
○埼玉時代が概ねぼくの評価起点を形成した。つまり、埼玉大学時代のぼくが「本来・本質の川口」であり、時間軸を今に近づけてみればみるほど、「川口は変節した」(大阪のM氏による、ぼく以外の他者に語られるぼくの評価)となるし、「生活綴り方はどうした!」という大方の声となる。
 だが、埼玉大学時代のぼくの本質・実態をどれほど知ってのことなのか、とぼくは問う。このような「活字」に残すことは多くの問題を露呈することになるので、それは「墓場まで持っていくこと」(友人のT氏のぼくの及びぼくに関わる様々な言動に対する実質評価)である。要は、ぼくの生活綴り方は大学教育実践の中で為された学生たちの構築財産であり、研究論文と言えるのはほんの数編でしかない、ということ、ぼくは大学民主化政策のささやかなコマ(駒)であったということ―「歩」にもなれないから結局は飛び出た―、それらに対する内外の評価が「本来の川口」とされ、「川口は変節した」となっているということなのだ。
○ぼくはぼく自身の中では何も変わっていない、自由を飽く無く探究する主体でありたい、ということなのだが。力量が伴わないのは事実。
○研究フィールドをあえて「捨てる」きっかけとなったのは、疑似共産社会を実験的に構築していたYという団体に対する日本社会全体から為された「批判」「攻撃」に対して、それがヤラセであってはならないと、批判的な短文を某団体の機関誌に寄稿したことに対する、「査問」とも取れる批判的追求(自己批判も求められた)、その他やいのやいのの非難が寄せられたことである。反社会的組織Yを擁護するとは何ごとか!と。ぼくは、たとえどのような個人、団体であろうとも、それらを批判するにあたって、ヤラセでもってプロパガンダをすることは、民主主義の理念から反する、といっただけで、Yを擁護するような表現はしていない。だが、その申し開きは認められなかった。「困るのだ、うちとしては。」という言葉が返ってきた。ならば、黙りましょう、そして去りましょう、という態度を取った。
○皆と共通のことを課題とし、それに対してオリジナルな見解を持つことは、正直言って怖くなった。
○偶然、セガンと出会うことになった以降('2003年以降)、ひょっとして、この世界ならばぼくがぼくであっていいと主張できるかもしれない、と予感した。なんたって、知的障害教育の世界やセガンの世界について、ぼくのこれまでの関係性で言えば、ほとんど興味関心が持たれないからだ。そうそう、もっとていねいに言わなければいけない。知的障害教育は本質ではない、それは多くの人の興味関心に組み込まれる(差別感情も含めて)。だが、セガンは、ほとんど、関心を持たれない。知的障害教育からセガンにいたる研究の筋道がこれまでの「セガン研究」「障害児教育」の世界であったろうが、ぼくは、「セガン」という人物の中に、自由と民主主義とを包み込んだ教育の課題を見つけている。これは誰にも「迫害」されることはない。
○コケちゃんに、こんなことを「遺言」として、埼玉時代のゼミの仲間たちに語り残す機会が欲しいなあ、とつぶやいた。
○ 今日は、昨日のリハビリの反動がきたため、一日中、寝たり起きたりパソしたり。生産性のあるものは…えっと、ありました!
「ふるさとの訛りなつかし停車場の人ごみの中にそを聴きにゆく」と啄木は詠った。いやしんぼのぼくはさしずめ、「ふるさとの味色なつかしサテライト人混みの中にそを探しいく」。で、求めた一品は、あいもかわらず、乾麺。
 200年余の歴史を誇る大矢知の麺。ぼくの生まれ育ったところからはかなり離れているので、大矢知(北三重にあたるか)を訪問したことは1度しかないと記憶しているが、大矢知の名は「伊勢そうめん」「伊勢の糸」と耳に馴染んでいた。自作の小麦を製粉工場に持ち込んで「伊勢の糸と交換してな」と頼んだ(そう依頼するように母にしつこく言われた)。それほどにぼくの生育になじみのある「ふるさとの味色」一品。
 今夕食は、「そうめん」素材ではなく「(手延べ)うどん」素材を大矢知の麺に買い求めたので、冷蔵庫にあり合わせの、ニンジン、タマネギ、ベーコンを共に使って焼きうどんとした。添えたおかずは、ワカメとキュウリの牡蠣ポン酢和え。 塩分控えめ料理ですぞ。塩粒は一粒も使っておりません。ベーコンとニンジンとタマネギの煮汁が塩分となって焼きうどんに絡められます。高血圧対策。もう一つは多めのワカメもそうですね。

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