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セガン「1843年論文」翻訳第3章 承前
 模倣は筋肉の活動の極みである。実際、ある身振りを作りごとでしてみたり、ある態度を取ってみたり、怖れる様子や身体を投げ出す様子を想像したりすることは、むずかしい。これらの活動はすべてその範囲が限定された、新しく創り出される余地のない、機械的な法則によって起こる。しかし、物真似は他の要素を含んでいる。動きや人と物、物と物との関係を物真似させるために、神経器官やとくに感覚器官が働く状態になっていなければならない。動きや人と物、物と物との関係を物真似させるために、神経器官やとくに感覚器官が働く状態になっていなければならない。物真似ができるために、彼らに、正確でもっとも代表的な行動を刻み込ませることが必要なのではなく、より高度な反対のことを示してきた。だが、多かれ少なかれ、偶然にも、驚くべき現象を伴ってきた。そして、この間接的な協同は、物真似によって、筋肉運動を体操へと統合する隠れた紐なのである。
 前者つまり筋肉運動のために為してきたように、後者つまり体操の基本概念を説明しよう。
○電子辞書、ペーパー中辞典に載っていない単語数語。要素分解して意味を組み合わせた。それにしても中野訳ではまったく意味がくみ取れない箇所あり。意訳されているが、完全に誤訳としか判断できない。上にアップした部分は、セガンによる「身振り」実践の総合評価に相当する故、慎重であらねばならないだろう。
セガン、1843年論文第4章、入力作業 とても長い。
○「1843年論文」第4章翻訳
第4章 神経組織と感覚器官の体操と教育・訓練
すべての外的感覚は、神経組織と感覚器官によって、交友生活や社会生活の中で、非常に大量に、かつ瞬時のうちに、人間に届けられる。感覚に適用された教育・訓練が、正確にかつ知的発達に及ぼす影響力によって、外的感覚を豊かにするというこの事実には間違いはない。感覚論者自身 によってほとんど言われることのないこの事実、ルソー によって言明されたこの事実は、いまだ豊かにされていない。「何とかしなきゃいけない」という人々と明らかにしている人々との間には、今もなお大きな隔たりがある。
○中野善達「訳者あとがき」(pp.207―215に限定)の諸問題―事実評価のみに限定して
氏名表記 Édouard Onesimus Séguin 
→辞書等でも表記されるがこの氏名根拠不明 
戸籍名は Onesime-Édouard SÉGUIN セガン自身の署名にも上記はない
地理案内
 「ヨンヌ川流域の最初の町がクラムシー」 
→クラムシーよりさらに奥地にヨンヌ川は源流がある。
 「この地方(クラムシー地方)は保守色が強く」
地場産業破壊政策に対する激しい抵抗史(16世紀から続き、クラムシーの経済文化を支えた「筏流し」への理解無し)
父親紹介
 「ルソーの諸著作に親しみ、とりわけ『エミール』を愛読していたという」
  →まったく根拠が得られない (セガンの最晩年の著作に見られる幼少年期回想のみ)
その他、時代社会的な記述の中から
 「パリ医科大学
→制度上の呼称は「医学部」。今日で言う単科大学に相当。
セガンの諸経歴に関わって(あまりにも多くありすぎるのだが・・・)
 「父に続いて医学の道を歩むこととし、医学校で勉学に励んだ。」
→1.セガンの時代はナポレオン学制改革が完了しており、医学校は「医学部」に改組
→2.その事実無し 
セガンはイタールと当代の代表的精神医学者エスキロルの弟子であった」
→後者の事実無し
「さらに週に一度、子どもを連れてエスキロルの下におもむき…」
セガンが、あたかもイタールとエスキロルから同時並行的に「指導」を受けたかの記述であるが、エスキロルのところに通ったのはイタールの死後。
「この年(1839年)、セガンは白痴児のための学校を開設したとも言われている・・・」以降、約1ページにわたる記述の中に見られる誤認、誤記多々あり。
★前記の学校開設年は間違い
1840年
★「同じく1839年、パリ貧窮理事会はセガンに対し、サルペトリエール院内の不治者施療院に、白痴児教育のための実験学級開設を許可した。」
→この記述の「学校」は上記の「学校」とは別のものを指しているが、年表記を含め記述全体に大きな誤りがある。「サルペトリエール院内の不治者施療院」という施設・機関は存在しない。1841年10月から(終年は不明)、男子不治者救済院内の10人の男児の教育のために「白痴の教師」として雇用されたのが事実。院内に「学校」があったという記録はない。また、セガンの記録では無給であったという。
★「彼は1842年末、ビセートル院内に学校を設け、一人の助手と共に・・・」
セガ研究史で流布されているこの説の根拠はどこにあるのか、まったく不明。セガンは「白痴の教師」として改めてビセートル救済院内の「学校」に雇用されたのであり、その年月は1842年11月12日から1843年12月20日まで。「助手」とあるが、「看護人」という原語しか登場しないし、性格記述も見られない。
★「この雑誌の編集委員にはオルフィラとエスキロルが名を連ねていた。」
セガンが「この雑誌」に論文(「1843年論文」)を寄せた時には、エスキロルはすでに故人である。また編集委員名にも表記されていない。
★「セガンは1846年頃にはビセートル院を離れ」
セガンは1843年12月20日、ビセートル救済院を管轄下に置く「パリ施療院・救済院・在宅看護に関する総評議会」によって、「白痴の教師」を馘首された。
★「王立科学アカデミーの委員会は、セガンの教育計画について次のような評価をした(1843年2月6日)」
→「科学アカデミーの委員会」とはセガンの白痴教育実践と理論とを検証評価するために1843年5月8日に組織され、検討結果の報告を同年12月11日に科学アカデミー総会に提出した組織のことであると推測される。
★「セガンはサルペトリエール院でもビセートル院でも報酬を貰わなかったという。」
→川口の言う<セガン神話>(白痴の子どもの教育のためにあらゆる仕事をしてその資金を稼いだ)を産み出す源の一つであろう。ビセートル救済院勤務に関しては、額の多寡の問題を考慮しないとして、住み込み(常駐)、まかない食事付き、報酬あり(後日成功報酬も契約されたが、馘首されたため、成功報酬の支払いはなかった)であった。
★「どうやって生活していたのだろう。彼は開業医として、また個人的な教授者として、さらにまた文筆家として忙しく立ち働いた。」
→「開業医」はあり得ない、「個人的な教授者」というのは、当時、一種の職業として成立していた「家庭教師」のことだとすれば、公的な機関での白痴教育に従事する以前と馘首されて以降とで「家庭教師」をしていたことは推測される、「文筆家」と称すべきほどの本数の原稿は見いだされない。
以上 
2015年6月26日  川口幸宏 記
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