第4章翻訳 承前

○朝から、うんとこしょ、どっこいしょ、と布団干し。梅雨の晴れ間に。本当のところは、誰がおしっこを引っかけたのか、珍しくたたんで置いたままであった敷き布団の隅っこが濡れていたので、日光消毒を兼ねて。初めてのこと。こうしたことはネコにとってのスプレー行為に繋がりかねないから、対策を講じねば、それにしても、昨日のスイカの効き目?だとするとタビチョだな、犯ニャンは…。
○どうしてこういう訳になるのか…。
★Pour moi, qui n’aurais jamais essayé l’éducation intellectualle de idiots, si je n’eusse exercé préalablement en eux les appareils de la sensation, voici ce que j’ai formulé à cet égard.
(中野訳:)私としては、予め私が白痴児の感覚器官を訓練しておいたからこそ、あえて白痴児の知能教育をやろうとしたのである。そして、私がその事に関して定式化したことは以下の通りである。
*siの訳の問題。そして、formulerの訳の問題。
★Le second, c’est le regard, sens intellectuel et sens actif, c’est-à-dire qui va au-devant des impressions, qui se meut à son tour volontairement.
(中野訳:)二番目のものは視覚であり、これは知的かつ能動的な感覚である。すなわち、視覚は諸印象の方向に向かって進み、自発的に活動する。
*c’est-à-dire 以下の、qui...... , qui....の構文の捉え方。quiを並列で理解しているが、果たしてそうか。
セガン1843年論文第4章 承前
私について言えば、私がこれまで白痴の知的教育・訓練を試みてこなかったのは、あらかじめ彼らに感覚器官を訓練しなかったからだが、このことについて、以下述べることにしよう。
 子どもに訓練する第一の感覚、それは触覚である。触覚によって、子どもは彼を取り巻くすべてのものと自発的なコミュニケーンに入る。強い意志によって統制され執着していた彼の手が、彼を取り巻くものの実在性に気づこうと探し求めて、子どもは見ることなく見、さらに聞くことなく聞く。
 第二は、眼差しであり、知的感覚であり活動的感覚である。すなわち、彼の周りで自在に動く印象に向かっていく。
 第三は、聴覚であり、知的感覚だが受動的感覚である。すなわち、受け止めようとはするが、印象を探し求めようとはしない。そして、次のことに通じる感覚である。すなわち、味覚と嗅覚とは、ほとんど同時に知性の助けを伴って、味と匂いとをききわけるのだ。
○ドクター・ロヒョー(le docteur Rochoux)とは何者か?「医科学百科事典」に人物掲載あり。1787年生まれ(1852年没)。医学アカデミーのメンバーか?(1841年の会員名簿には掲載されていない)。ビセートルの医師も勤めていたようだ。
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