ある往復書簡より

○「今、なぜ、セガンなのだ」「セガン研究何を明らかにしようとするのか」等々の問いが、きわめて好意的に寄せられる。N先生などは「セガンがアメリカに亡命した謎を明らかにしようとしているのか」と、率直で批判的なメールを下った。それにお応えしようとしたのが「セガンの1843年」第9号だ。
○何とかぼくの真意を理解して下さったメールが届いた。
「1843年のセガン、第9号いただきました。有難うございます。
 セガンの告別式での追悼の辞から「問い」が生まれていることにまず、驚きました。ブロケットという人とセガンとは、どういう関係だったのでしょうか。告別式で弔辞を述べるとなるとかなり親しくおつきあいのあった人でしょう。いくら故人を崇敬していたとしてもセガンの人格の核心的な部分について、事実に基づかないことを語って故人を賞賛することなど、普通はあり得ないですよね。そこに敢えて?をはさみつつ諸資料の精読を進めていこうという決意の強さにうたれました。もしかしたら未発見の資料探しも当然視野に入れてのお言葉かとも思ってます。
 いずれにしろ、今先生が問題にされていることは、セガンという人物、障碍を抱えた子達を教育へと道をひらいていった立派な人物が、一体どのようにして形成されていったのか、セガンという人物研究なのかなあと思ったのですが、的はずれ」ですか?」
○ぼくの返信
「ブロケットのセガン追悼はセガン研究で基本的文献とされて引用されてきました。S先生など、丸ごとブロケットに寄りかかって、セガンのフランス時代を説明しておられました。
 S先生は、ブロケットの回想をできるだけ史料的裏付けを持って説明したいとお考えになり、私に調査を依頼されたのです。2003年のことです。私は、2000年度から、パリ・コミューン研究を進めておりましたので、ブロケットの追悼文に出てくるほとんどの人名にはなじみがありましたが、たとえば、セガンはヴィクトル・ユゴーと同人仲間だった、というのがあります。S先生はとにかくユゴー大好き人間であり、進歩主義者以外には人間像を思い浮かべないからセガンがその同人仲間だった、というのはどうしても史料的確証が欲しいわけです。しかし、セガンが過ごした19世紀前半の青年期時代は、ユゴーは貴族趣味で保守的でありましたから、思想的には一致しないのです。…と、そんなささやかな疑問が出発点になって、「同人」というのはサン=シモン主義者「家族」のことであり、ユゴーはその一員ではなかった、たぶん、ブロケットが間違ってセガンから聞き取ったのだろうとか、いろんな事が推測され、また分かってきました。
 あと、弔辞、追悼文というのは、生前の個人を針小棒大に褒め称えることが多々ある、ということも、私に疑問を持たせたところです。ブロケットとセガンとがどういう友人関係あったのかは、私は知っていません。おそらく、聖職者ブロケットの白痴者福祉活動と繋がっているのだと、思われますが。
 私のセガン研究のモチベーションは、19世紀という時代が産んだ「セガン」という人物像を解きほぐしたい、というところにあります。」
セガン研究10年を下記にアップ。
 http://d.hatena.ne.jp/kawaguchi-yukihiro/20150703/1435906880
○2005年7月2日の「祝う会」で、何の繋がりもないトドちゃんと姫様が、「受付」の大役を引き受けて下さった。そのトドちゃんからー
*10年の総括ささーっと読ませていただきました。寛ちゃん3ちゅに反抗してのつるぴんセガン研究の始まりから10年。こうして読ませてもらうと、トドにとってのセガンの歴史10年で、ある意味感慨深くもあり、また頭の中がだいぶ整理されました。
 これからセガン像の解明に命を賭けるつるぴんにトドちゃんからエールを送りまする。それにしても10年早いような短いような・・・ 生誕200年記念国際シンポジウムの本はどうしたのかなぁ?
*ありがとうございます。「シンポジウム記録は本に纏めます。」という話しだったけど、あれからもう2年半。フランスのこと、ケセラセラ…でしょうね。
○本日は翻訳休息日。・・・って、いつも休息ばかりやでッ!
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