セガン翻訳 不治者救済院のこと

○中野訳本の致命的な欠陥は、翻訳もさることながら解説においても、セガンの白痴教育実践のエポックメーキングとなるフォブール・サン=マルタン男子不治者救済院に関する知見がまるでないということだ。そしてこれは中野善達氏に限らず、我が国におけるセガ研究史においても欠落していた問題である。
○「私は子どもたちが糞便を楽しそうに嗅ぐのを見ていた。これらの例、ならびに、私が年長者 に観察した他の例は白痴に非常に際立って見られる。」の部分においてしめされた情景ならびに「年長者」という記述に不治者救済院がどのようなものであったかが容易に推察される。ビセートル救済院などでは収容者管理を整備し始め、施設も整備し始めており、それが、「1836年法」と呼ばれる、救済院・施療院の近代化の法的条件を整えはしたが、ほとんどの現場では、混合収容であり、衛生管理もシステムそのものが整っていなかった。もちろん、「白痴の子ども」専用の施設(学校など)などは設立されていない。セガンは、呆け老人や狂人などの精神障害者、盲人などの身体障害者に混じって、白痴の子どもたちの教育・訓練を行った様子を綴っている(1842年著書)。現代の感覚ではとても具体的に想像できない環境であった。
○「あなたはフランス語をどれだけ勉強したのですか?独習ですって?私は大学で学びましたよ、第2ですが。」そんなお声がかつて西の方から届けられた。セガンがサルペトリエールで実践はしていない、とか、医学校に通ってはいない、とか、セガンは辞職したのではなく罷免された、とか、西の方の論文にぼくの結論を付与して疑問を申し上げた時の、お応えだった。今回の疑問もそんな声が天から聞こえてきそうだ。
(中野訳)「私は治癒不可能な者たちの施療院で、白痴児の一人が、便が詰まった流し場でものを食べながら顔を洗っているのを見たことがある。しかも彼は、洗顔とものを食べるのに、同じ手を無差別に使っていた。」
 ぼくの訳は下記。
○「1843年論文」翻訳 第4章 承前
第二節 味覚と嗅覚
要旨 ― 子どもたちは、一般的に、この二つの感覚を失っており、あまりにも過ぎた好奇心に支配されてしまう。
 彼らの未開の味覚や嗅覚にとっては、何ごとも、たいしてきつきなく、あまりに酸味もなく、甘くなく、悪臭もひどくなく、刺激がない。塩、胡椒、酢、度の強い酒の乱用は当たり前のことなのだ。私は子どもたちが糞便を楽しそうに嗅ぐのを見た。これらの例、ならびに、私が年長者 に観察した他の例は白痴に非常に際立って見られる。私は、不治者救済院で、糞便でいっぱいの便器を食事用に洗っている一人(の年長者)を見た。彼は、同じ手で、かまわず、食事と食器洗いの作業をしていたのだ。彼は嗅覚と味覚とが等しく損なわれていた。
方法 − この二つの感覚が知性と直接関係しないとはいえ、私は、それらの発達が神経組織の機能の調和に重要ではないし、少なくとも、知的な活動に、間接的にも貢献しない、などという疑いなど、一片のかけらも持たなかった。そして、この二つの感覚は、たんに明確な関係を持つばかりでなく、共通の器官からなるので、私は、それらを同時に発達させることを勧めるのである。
 味覚に対しては、刺激物を避けなければならない。あるいは、刺激物を与えるとしたら、世話の際に、子どもが味わうに十分に足りる一回の量にしなければならない。この事例の場合では、カイエンヌ・ペッパー はよりよい薬剤の一つだと思う。味覚があまり発達しない場合には、逆のものとして、ミントドロップを使ってよい。しかし私は、一回分に非常に微量のコロシント や、バニラエッセンスかバラのエッセンスの入ったドロップを使うことが望ましいと思う。また、苦い、酸っぱい、芳香がある、糖質の味を普通に近づけるために、それぞれの度合いを次第に下げていく。そして、単純な風味と複雑な風味との間の非常に微妙な差異を感じ分けさせて終わろう。
 このことに関して一言だけつけ加えておく。キャンディーの形をしたあらゆるものは、ホンの少しだけしか与えられないということが、きわめて重要なことである。というのも、際限なく与えられたキャンディーは、子どもの健康のためには支障にしかならない食料なのだから。
○あと少しで味覚が終わりだというのに、目の限界。
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