終日翻訳作業 第4章第3節終了

○左腰下の痺れ感がやや強い。朝からのゴミ出しがつらく感じたほど。
○すこしずつでも、気づいた時に、歩行訓練をする。するとその後は体が軽くなったのを覚える。纏めて運動をしようという発想から転換をした方がいいかもしれないと思う。まずは、翻訳開始の前に、階段の上り下り(手で手すり等を摑む)を5回、廊下を両脚を高く上げて歩く(手の支え無し)のを5分。…という具合に。
セガンはエスキロルから教育・指導の委託を受けたフェリシテ・X嬢13歳が登場。中野氏はこの子を具体的に理解しないため「彼」と訳出している。
○Qui sait? この単純な2語のために辞書を隅から隅を読む。中野訳ではごまかされている。セガン論文の読者はフェリシテが突然大人しくなったことについて、ほんと?と心で思うのが多いだろう。それに対してセガンは「あり得ないことではないのですよ。」と語りかけているのだろう。
○イタール第一報告書(1801年)の中の「音」に関する逸話が登場してくる。
○1843年論文翻訳 第4章第3節 承前 
 そもそも、白痴たちは、ゆっくりと重々しい拍子よりも強力で陽気なリズムにたいして感受性が強い。おそらく、振動が多いほど彼らの活動が物理的にも精力的であるからだろう。同様に、人の声楽よりも楽器音楽の方が感受性がある。人の声楽の振動が楽器の振動よりかなり少ないことでそうなることは、間違いがない。が、他に理由がある。白痴は観念を言い表すことができないばかりか、怖れの状態になる。声楽は、彼を不愉快な気持ちにさせてしまうのだ。というのも、理解し産み出さねばならな観念と、かつ絶えず彼の無気力と無能恐が抵抗を示す知的興奮剤という恐ろしい形式のもとで、つねに彼に襲いかかるのだから。
  さらに音楽は、過度の神経性の興奮の場合の気晴らしとして益をもたらすことができる。かの著名で尊敬に値するエスキロルの医学的管理の下で教育・訓練を行ったことのある子ども は、身をよじり、口から泡を吹いて地面に転がり、「友達みんなに私を私のジャッカルちゃんと呼ばせなさい」と泣き叫んだ。日に幾度となく繰り返されるこの叫び声が一段と強まった時、ピアノが音を立て始めたとたん、言うなれば、叫び声を真っ二つに切り裂いた。それから子どもはゆっくりと身を起こし、座りに行き、肘と頭をピアノの音響盤の上に持たれ掛け、それと共に、口を開けたまま、一点を見つめて、一日中過ごした。あり得ないことではない・・・おそらく、何ヶ月か、この子の生活のすべて、音楽が聞かされ続けるとしたら。遠慮なくこの方法を用いる医療補助員 を失敗させてしまうような危険性を避けさせるために、強調してこうした些細なことを描写するのだ。白痴の音楽行動は速いテンポで、急激そのものであらねばならない。興奮が生じた時は、すなわち、白痴が、すなわち感受性の強くない者が興奮した時は、急いで、その生じた興奮を有益にしなければならない。
 しかしながら、私が言ったように、音階の学習と活動とが聴覚のすべての運動を含んでいるのではない。なおまた、私は白痴の大部分がよく聞くと言った。しかし、なかには非常にゆっくりと聞く者がいるということをつけ加えなければならない。そしてこののろさは、考えられるようには、彼らにいつも同じようにあるのではない。否。(私は予測していうのだが、この哀れな子どもたちが過ごす現象についての意識を持つかどうか)、それは、彼らが物音を聞くにあたって持つ興味の度合い、あるいはあるいは、自身に届く声の中に持てる信頼性の度合いによるのだ。例えば、白痴が寄せ木ばりの床にクルミの実が落ちるのを聞き、やや経って、突然の、恐ろしげな銃の音に、平然とし、無関心の態度のままあったことは知られていることだ 。彼らにパンを探しに行くようにという時の走っているのと、彼らにダンベルを取ってくるようにと命じられる時のいやいや行くのとを、私は毎日見ている。同じ命令でも、私の話し方の響きやアクセントの置き方によって、非常に間抜けな笑いを彼らに誘うか、さもなくば、直流電流のように彼らを従わせるかなのだ。おそらく、これが、先生とその生徒との関係において、できるだけ早く自然の声に戻ることが重要だという関係性なのであろう。
方法 −運動は三点に向けて行われる。第一は一般的に音に関わること。第二は音階に関わること。第三は情熱的な声に関わること。
第一には、子どもは、一つあるいはいくつかのものをぶったり触ったりして生ずる音を聞き分けることができるようになければならない。
第二には、調和音を分ける違いや8音程に纏める違いを聞き分けること。
最後には、人間の声がよく表す喜び、怖れ、苦痛の様々な表現について。すべてのこれらの運動の中で聴覚だけが測られ、他の感覚作用は必要な場合は中止する。