何もしなかったが「解説」を意識し始めた

○翻訳を手がけようと原文を開くが、まったく気が起こらない一日。仕方がないから、「解説はどんな風にするかなあ」と妄想をした。
○中野訳文をこれまで読んで、非常に気になったのは、時代社会的な情景を想起せざるを得ないような問題について、まったく訳文上意識されていない、ということが挙げられる。
○例えば食事について。「スープに始まる豪華な食事」と原文にあるのを「フルコース」と訳している。とすると、ぼくたちの日常でいうフランス料理のフルコースが頭に浮かぶ。しかしセガンの原文では、続けて、「子どもにはいっぺんに大量に食べさせてはならない」とあるから、当然、「フルコース」の具体イメージとは異なった光景描写であるはずだ。しかし、中野氏はそんなこと無頓着。注記も解説もないから、読者は、ああ、あのフルコースをがっついて食うんだな、白痴の子どもは、という「観念」を抱く。大間違いだ。
○一九世紀中頃のフランス人家庭の食卓に対する目を持たねばならないだろう。大方の貧困家庭では「スープに始まる豪華な。。。」なんてことはありえない。朝食を摂るのは親だけでしかもコーヒーだけ、という家庭が少なくないのだ。中級以上になってやっと、「スープに始まる…」は出現するが、フランス風では、個別にスープ皿に盛られることはない。テーブルの中央に置かれたスープ鍋から各自がよそうのだ。宮廷料理は別だが、そんなもの食べられる家庭など、そうあったものではない。セガンにとっては、料理もまた白痴の子どもの教育対象となって描いているのであるから、セガンが教育の対象とした階層は、中級以上となる。
○こういう文献に示された文化論的なセガン研究は皆無である。残念ながら。そんなことを、解説で書こうかしら、とも考えている。
○こんなことも面白いかな。
「じつを言うと、オネジム=エドゥアール・セガン(通称名エドゥアール・セガン。もしくは英名を採ってエドワード・セガン。1812年フランス帝国ニエヴル県クラムシーに生まれ、1880年アメリカ合衆国ニューヨークで没す)は、長い間、フランスでは、わずかな関係者以外では「忘れられた存在」であった。セガンを生んだクラムシーの市長を長年勤めたベルナール・バルタン氏は、1980年前、公務のためパリを訪問した際、「クラムシー出身の知的障害児教育の開拓者エドゥアール・セガン没後100年祭」が催されるのを知り、シンポジウムに参加した。氏は、「そのようなセガン某」の存在を初めて知った、という。クラムシーに戻ってさっそく「セガン」に関わる事柄、「知的障害教育・福祉」に関わる事柄を調べ、市行政に生かせるものがあるかどうかの点検を始めた。戸籍関係とセガンから市に寄贈されたセガン著作数点、ならびに書簡数点は見つけることができたが、彼を産んだ「セガン家」(建物)は長らく不明なままであり続け、『ナポレオン土地台帳』を基にした調査結果、2003年春にようやく判明した、という。
 それほどに、セガンの名と業績とをつなげてクラムシーやフランスを語ることはなかった、ということだ。世界的に偉大な仕事を成し遂げた人にもかかわらず、その人間性、人生行路の詳細が不詳であり続けている一つのエピソードではある。
 縁あって、私がセガンのフランス時代(生誕から1850年まで)に関わって、本格的な史料調査に取りかかったのは2005年からであった。着手当時のセガン像を描くとすれば「・・・といわれている人」であって、歴史的実在像にはほど遠い存在であった。氏名でさえ、研究の世界では多種多様に伝わっており、戸籍名も不明であったのだから。当人が筆名でも使っていない氏名記録(たとえば、Edouard Onesimus Seguin)などはどうして産み出されたのか、分からない。そして残念なことには、今もなお、彼の子息エドワード・コンスタント・セガン博士(1843年パリに生まれ、1898年ニューヨークで没す)を産んだ母親の実像を示す事柄は、一切、明らかでない。そう、出自、年齢、氏名も不明なのである 。
 本解説は、「忘れられた存在」セガンの実像を可能な限り浮かび上がらせる努力を重ねてきた成果に基づいて、したためられたものである。」