夕刻まで翻訳、夜、山下君に会う

○「揺りかごの側で時間を掛けて観察した」とある。このことはすでに「1842年第一著書」で述べられていることだから、1843年生まれの息子コンスタンスのことではない。ただ、コンスタンスの生まれがそれで間違いがないという条件付きだが。戸籍等を見つけられないので、あくまでも仮定の上でということになる。では、いつ、どこで?「観察」が目的意識を持ってなされていることから、白痴教育を始めて以降ということになる。乳児院に出向いたのか?他に記述があればさらに考察できそうだが・・・・。
○中野訳文、時制がでたらめ。原文抜かし訳。中野氏の悪癖だというしかない。
セガン1843年論文翻訳 第4章第4節完成
「これらすべての理由が私が適用してきた歩み(だが、これら主要な点すべてで私と意見の一致を見るためには、私がしたように 、揺りかごの側にかがみ込んでしばし時を過ごしたようにするしかない)を説明するために十分でないとしても、扱ってきた子どもたちに対して私がなした観察は、疑いなく、とても価値があるはずである。
 L....は、e、o、i、u音を発することができなかったが、ma、bi、poなどを言い始めた。S.....はどの母音も正確に発しなかったが、同じ母音で終わる唇母音のいくつかは上手に発音した。
 G....が表現した最初の声音はpa、mi、boなどであった。A....はそれと同じ音を示した。しかし、必ず二度繰り返した。boとは言えず、bo-boと言ったわけである。彼はmiを言えず、mi-miをとてもはっきりと発音した。
 M....も同じく、私の方法に意味づけをしてくれた。iを言えず、mi、pi、li、ti、などの音節の末尾のようにiを発音した。今では、この子は、とてもよく分かるようになっている。
この分野の教育は非常に手間暇が掛かるが、模倣能力が示され始めた時から、この教育は始められる。この運動はすべて長い時間を掛けて、かつ次第に早めて実施されなければならない。いくつもの音節を、はじめはよく似た音節を、続いて不調和な音節を、一つにまとめることによって、この教育を複雑に進めていくのだが、それは単語全体の発音ができるまでおこなれ、フランス語発音の非常にむずかしい調音で終わるのだ。
 それはつらい物真似である。それなくして、諸器官はその無活動状態を抜け出すことはできないのだ。」
○第4章第4節まででファイルを閉じ、新たなファイルを起こす。seguin1843-4-1、そして、seguin1843-4-2 第4章はまだまだ続く。
○夕刻6時より2時間余、山下勝也君と、柏駅ビル内の寿司屋にて会食。もう、感無量。こんなに心が嬉しくざわついたのは本当に久しぶりのこと。山下君は「川口が生きているうちに一度顔を見ておかなければ」と、今回の研修のための上京を機会として、会うことにしたそうだ。あれこれぼくの姿を想像したのだろうなあ。予想に反して、というよりは予想だにしなかった元気な赤ら顔をお見せしてしまいました。杖つき姿でしたが、一度だけ、無杖でトイレに立ち、人間の特権二本脚歩行が何とか可能な姿をお見せしました。ぎったばったんなので、けっして健常そのものではないのですが。
○ぼくの方からは今の生活で自分を支えるものと言えばセガン研究であることをお話しし、山下君からは大阪の、そして学校の教育行政状況の話しを、少しして貰いました。
○印象に残る山下君の言葉・お話し:共に生き共に学ぶ、共に学び共に生きる」「やりたいことをやりたいようにやらせて貰って、しかも川口がそれに付き合ってくれた。遊びも。」
○ぼくや山下君らにとって、「まさに奇跡の2年間としか言う他ない」。その2年間しかぼくは和歌山大学で教えなかったんだものね。
○二人の記念の写真を