柏に出た・人文科教育研究のこと

○「絶対スタスタ・・・・歩・・・・きたい。」
 この間の鮹のごとき爪先稼働の様子から、やはり、期待というか妄想を抱くわけです。猛暑の中だけど、出かけよう、用を片付けよう。
 スタスタタ・・・・あかん。ど足つっかるやんけ、きつう痛いやんけ。けっ。
 身体は家に戻りたがるが、心は前向き、のようだ。
 1.某所属学会に退会届をポストへ ルン♪ 発表もしない書きもしないお声も掛からないからチリツモヤマ的存在であったのだし。未練はないさぁ(昭和人間故「枯れすすき」風に)。終活の一環。
 2.遺族年金最終回受け取りを郵便局窓口で ルンルン♪ 臨時収入だものなぁ。とはいえ矛盾する心を大きく抱え込んでいました。
 3.郵便局窓口マドムアゼルがニッコリ、「暑いからお気をつけて。」 ルンルンルン! ありがとうございます!
 4.電車に乗って市役所「出窓」にて市議選期日前投票。会場整理係のマダムに「おじいさん、足許気をつけてね。」と声掛けされて。はいはい、ありがとうです、と少々つっけんどんに。
 しかし、おとこって、声掛けする習慣無いの?いや、声掛けして下さってるんだけど、自分勝手に「聞き分け」しちゃってんだと思いますけど。
色々用を済ませて帰路に着きましたが、歩きたくない、歩くのやだと、何度も電信柱にしがみついた次第です。
○人文科教育学会は身内学会。若い人たちの業績作りに少しでも寄与しよう、というか、若い人たちの腕試しの場というか。そもそもが、ぼくがドクターの時に、院生に研究発表の場を保障しようという研究闘争の一環として、産み出されたもので、全国の大学(院)の先駆けとなったものだ。パッシングも受けたが、くぐり抜けて第一号を出した時は感無量。当時ご指導をいただいた湊吉正先生が、「人文科教育研究」第10号刊行に当たって寄せられた御文に「昭和50年秋口それまでの長い期間にわたった院生の方々の悲願がようやく実り,本誌の創刊号が刊行された。外山滋比古先生の強いお勧めが一つの契機となり,当時の院生の方々の熱意と実行力とがそれを実現させることになった。」と綴っておられるが、外山は弾圧側、湊と、ほとんどの院生が沈黙を保つ、というのが実体であった。苦しい思い出だ。『私の中の囚人』にこのことを綴っておいた。
○翌昭和51年4月1日(1976年4月1日)、ぼくは大学人としての第一歩を歩み出した。「埼玉大学講師教育学部」と辞令にあった。32歳半にしてようやく社会人となったわけである。希望に燃えていたといえば人並みなのだろうけど、この年の1月、長男博史を白血病で失っていたので、就職がどうにか生きる気力を支えてくれていた、というべきだったろう。
○『人文科教育研究』創刊号から何号かはぼくが編集実務をした。当時はワープロがないので、信頼できる和文タイプラータ-印刷所に原稿を持ち込んで植字・版組・印刷・製本をお願いした。千住元町の佐藤印刷所。地域の竹学校をぼくと共に創設に携わっていただいた方だ。
○さらば、人文科教育研究室。