我が研究者人生のふり返り

○今日は、支援をいただいているトドちゃんの誕生日でした。ぼくがお祝いするのは明後日。
○T氏と思われる方からいただいた葉書、そしてもう少していねいに言えば志摩陽伍先生からいただいたお言葉をきっかけとして、我が研究者人生を振り返って見た。振り返ってどうする?という宛てもないけれど、「今」がどういうものなのかを考えるよすがにしてみたい。
○志摩先生にいただいたお言葉というのは、「若い頃の輝きはただそれだけでしか無かったのだと思っていた」というのだった。そして、今回T氏からいただいた葉書には、ぼくの埼玉大学勤務時に出版した書籍をあれこれあげて「改めて驚いています」とある。
埼玉大学勤務は、1976年4月から1990年3月までの14年間。ただし、1985年4月からは附属教育実践研究指導センターに配置換え(実質的には降格となる。清水寛先生曰く「何も悪いことしていないのに左遷だものなあ」)。ぼくの意識の中にもセンターへの配置換えによってそれまでの教育学研究者としての研究方法、研究対象を根こそぎ奪われたという思いが強くあり、生き方に誇りを持つことがなかった時代だ。日常は絶対に飲まない酒をあおりもしたなあ。
○だから、志摩先生やT氏の印象に残っているぼくは、1985年ごろまでのことなのだろう。生活綴方教育史研究者、生活指導研究者として著書を出し、研究会や学会を中核として支え、ジャーナリズムにも幾度か顔を出していた。Sテレビでは番組制作にも関わった。学生指導でも全国的な注目を浴び、「埼大に川口あり」と評判を立てられていた。エネルギッシュな30代半ばから40代前半期を過ごした。
○この期に著した代表的な著書(すべて単著)は
1980年 生活綴方研究
1982年 私の中の囚人 教育学者の自立への旅
    子どもが生きる教育 頽廃の構図と創造の視点
1984年 青年教師の自立と教育実践 未来の教師のために
1986年 教師像の探究 子どもと生きる教師の創造
○「過去の栄光」にしがみつくほどバカではないという意識が、何とかぼくを支えてはいたが、現状を逃れて新しい自分をどう創るか。戦前生活綴方教育史研究でたいそう親しくしていただいていた碓井岑夫先生からいただいた電話口でぼやいたのがきっかけとなり、先生の勤務校和歌山大学に転じる選択が一つ。そして、志摩陽伍先生から研究的に提案されていたアメリカの言語教育運動ホール・ランゲージと日本の生活綴方とをつなぐ架け橋を本気になって作るという選択が一つ。
和歌山大学には1989年10月から勤務し、1991年4月から教育学部附属教育実践研究指導センター長を務め、翌年1992年3月まで籍を置いた。心から楽しいと思える勤務状態をいただいたことに感謝するばかりだった。学生諸君との学び・遊びの日々も非常に充実したものであり、ぼくは「現代の若者宿」と形容した。
○米日の教育の架け橋として、ホールランゲージ関係書の翻訳作業に力を入れた。英語ドロップアウト人間としては苦しい作業だったが、それしか他にぼくが生きる道を見いだし得なかったので、がんばり通せた。また、アメリカ合衆国に毎年のごとく出かけるようにもなり、翻訳書原著の著者ケネス・グッドマン氏と時を過ごす時もあった。
1990年 教育への新しい挑戦 英語圏における全体言語教育
1991年 書くことによる教育の創造  アメリカ人による生活綴方教育の研究
(後者は埼玉大学時代からT氏らとの共同翻訳作業で進めていた果実。)
○1992年4月から学習院大学に転じ、中高の教員養成に携わったが、研究課題と方法とを定めることができず、いわゆる大学の授業テキストの編著者になるように要請され、教育原理(教育基礎)、道徳教育、生徒指導、特別活動、生活科教育、情報教育などの仕事はこなしたが、とても研究活動の成果とは言えない。必然的に研究会や学会に一切顔を出さなくなっている。「川口は終わったな」という印象で見られていたのは、当然のことだ。
○その代わりというか、「セガン」に夢中になった。2003年以降になる。清水寛先生らのセガン研究が、もともと第一次史料の重んじて研究をしてきたぼくの血を大騒ぎさせたからだ。「実証性がない」と幾度も噛み付き、清水先生を怒らせたこともある。批判から創造へと舵切りができるようになったのは、2007年以降だろうな。この頃、ネットを通して、ぼくのフランス教育史研究に関わる到達を発表し始めていたが、世間様は「歩くしか能のない教育学者」と、うわさを立てて下さっていた。
○2009年のサヴァティカルで、「セガン」を教育史研究の成果として発表できるだけの史資料を収集することができた。ようやく、研究者として胸をはってもいいんだ、という気持ちを持つことができた次第。
○こうやって振り返って見ると、危うく「竜頭蛇尾」的人間になってしまうところだったんだなあ、と思う。「セガン」そして「パリ・コミューン」で閉じたぼくの公的研究生活。予後、さらに発展させるべく、奮闘せよ!