通所デイサーヴィス 総括改訂

○粋生倶楽部増尾通所デイサーヴィス。午前中の通所人員が9名であると教えられ、びっくり仰天。今日は実質6名であったが、コーヒーサービスを終えてもしばらくぼくは放りッ放しにされていた。自分から足揉み、続いて自転車ぺたる踏みに、了解を求めて取り組んだ(ぼく「とくに付き添いが必要のないものだからね」)が(ぼくに対する信頼もあるのかもしれないけれど)、その日のプログラムがどのように組まれているか分からないままの自主訓練試行はどうなのだろうか。つけ加えれば、最後の30分あたりでぼくに対する訓練指示は出されなくなったので椅子に座っていたが、やはりそれではまずかろうと、「じゃあ、ぼく、歩行訓練をお願いしたい」と言って歩行訓練を開始した。しかし他の人の歩行訓練と交錯しないように神経を使わざるを得なかった。
 これで後3人が増える9名のクライアントはどのように訓練がなされるのだろうか。少し気になるところ。しっかりと訓練がなされるのならば人数の問題ではないのだけれど。
○久しぶりに「庭」の生物たちの観賞。ちょっと暑い午後の陽射しだったけれど。
*ハナモモの実が随分と大きくなっている。ちゃんと手入れすれば食べられる実になるのかしら?そんなことを考えながら、幹にしがみつくような実を被写体に。

*「アケビの実は今年は少ないなあ」と思いながら広がり茂っている蔓を眺めていたら、雄花と雌花が咲いているのに、気がついた。「え?こんな季節に?」

*自室南西窓をカバーする「日よけ」の蔦科植物。何という植物なのだろうと思いながらシャッターを切った。ヒョウタン?ヘチマ? いいえ、細君と夢さんは、そんな俗人ではありませんでした。「琉球おもちゃ瓜」。聞いてびっくり。食べられません!一石一鳥が我が家の我が家たるところ。

○総括、改訂版
近況 そして 我が研究者人生を振り返る 
<近況>
 昨年(2014年)2月17日早朝に救急車で病院に運ばれ即刻入院。脳梗塞による左半身不全と構音障害という診断を受けました。病院での治療・リハビリは同年3月末まで。この間予定が組まれていた学習院大学での退職記念のための諸行事はすべてキャンセルしていただきました。ただ、3月2日の、友人・知人による退職と新著(『19世紀フランスにおける教育のための戦い セガン パリ・コミューン幻戯書房、2014年)出版の祝いの会は、小生不在のまま、開いて下さいました。前方スクリーンに小生の肖像写真が映し出されている光景は、何となく、その写真そのものも小生念願の生前葬を思わせるものがあり、それはそれで嬉しい思いをしています。
 3月末に退院し、以降、自宅療養に励んでおります。昨年1年間は「要介護1」、この4月からは「要支援2」という身体状況です。昨年1年間は自分でプログラムを組んで自己リハビリに努めました。ですが、なかなか進歩しませんでした。
 この4月から、週2日の粋生倶楽部増尾(いきなくらぶますお)という通所デイサービス施設で、専ら機能(回復)訓練を受けております。7月に入ってから、ぼくの通所する日(土、月)の朝の訓練開始前のいわば健康観察時に、焙煎済みのコーヒー豆をミルで挽いてご希望の方に淹れて差し上げることを始めています。もちろん無料です。けっこう喜ばれているようです。まあ、昔取った杵柄ですね。とはいえ、左側の身体が思うに力が入らず運指も不自由ですので、ミルで豆を挽くという作業行為そのものはきつく感じます。ですが、楽しみながらのリハビリの一つだと思っています。
 現状ですが、左半身とくに左脚の運びが思うに任せず、転ぶ寸前の躓きがしばしば起こります。7月24日は、デパートのあのぴかぴかの疑似大理石の床に左脚先を取られて(引っかけて)しまい派手に転び、左臀部をイヤというほど強打し、2週間以上も経った今、その痛みを抱え込んでいます。
 さらに疲れ感が非常に強いので、立ち居・歩行の姿勢は1時間持たせることが困難な状態です。ですので、外出、リハビリ散歩などは、必ず座り姿勢で休憩を取ることができるようなコース(例えば児童公園がある、とか)を選定して、行動しています。
 また、これは主治医である脳神経外科医からの受診・検査指示によって眼科診療を受けて判明したことですが、両目とも白内障加齢黄斑変性に罹病しており、とくに後者によって、左目焦点部が中心部を、右目焦点部が周辺部をやられているため、きちんとものを見分けるのがやや困難な状況となっています。左右の焦点距離の違いのような感覚でものが見えると申し上げればいいかと思います。あるいは立体感が少ないというか。後者の病気はいわば不治の進行性病であるということですので、現状が悪化しないことを、無神論者のぼくが神に祈るような状況です。後述のように、現在進めているセガンの著作の翻訳が終わるまでは、何とか字は判読できる能力を保っていたいと切望しているところです。
 こんな身体を抱え込んで、精神をしっかりして生きなければ、自己存在感は当然のこと、家族をはじめとした諸関係を不幸感を持ってしか生きられなくなってしまいます。多くのそのような家族や人間関係を見聞きしてきましたので、ぼくがそのような存在のコアになることはもう少し、いや少しでも先延ばしをしたい、と痛切に感じます。
で、ぼくにできることは何か。外へ出て社会関係の中で生きることは身体能力上不可能に近い。研究者としての道しか歩んでこなかったぼくには、どんなに非力でも、研究的に自己存在を主張することしかできません。かといって、これまでのフィールドワークのようなことは望むべきもありません。それに加えて上に述べたような目の状況もあります。
 あれこれを考えた結果、この10年余取り組んできた「セガン」を対象とし、さほど遠くない時期に(少なくとも1年以内に)、セガン『白痴の衛生と教育』(1843年、セガン31歳の作品)の全文翻訳をし遂げる目標を持つことにしました。同書はすでに故中野善達氏の訳書が出されておりますが(中野善達訳エドアール・セガン著『知能障害児の教育』福村出版、1980年)、同書の解説文にかなり多くのかつ重大な誤謬があることに象徴されておりますように、訳書としても完全に改める必要があると思っている次第です。同書は我が国におけるこれまでのセガン研究の多くの瑕疵の源ともなっているのです。
 現実的に言えば、私のフランス語能力には余るところですので、あるフランス語能力が達者だと思われる方(フランスで教育学博士号をお取りになった方)に、その方の業績の一端に加えて欲しいとお願いしたところ、「喜んでお引き受けし、誠心誠意、翻訳作業を進めます。」と、複数人の前で宣誓したのですが、最終的には(申し出て6ヵ月後)、自分には難解だし、そもそも川口がやるべき仕事だ、と断られましたので、「自分一人の脚」で歩く決意を最終的に固めた次第です。今年の5月のことです。
 ぼくは、大学の同級生からも授業時内においても、また研究者仲間からも、「語学の天才的落ちこぼれ」と、揶揄され続けてきました。そんなぼくがフランス語原典(しかも19世紀半ば)と真正面に向かい合うなど、誰も考えないことです。セガン研究の大先達でしかも「セガンのフランス語原典を誰よりも先にフランスから取り寄せたのはこの私です」といわれるお方など、「あなたはフランス語を独習ですって?私はきちんと大学で修めましたよ。」というお手紙を下さったのですが、その真意はどこにあったのでしょう、セガン研究上のそのお方のお書きになったことについて、疑問、批判をしたためた書簡を差し上げたご返事の主文が、たったその1行であったのです。
 知的障害者は社会にとって迷惑な存在、無駄飯くらいの存在という「排斥的常識」が横行する現在ですが(制度的理性はそうではありませんけれど)、170年以上昔、20代半ばから、知的障害者の社会的自立のための実践をいわば独学で進め、その成果を実らせ、今日の知的障害教育の出発点を創りあげた人の理論と実践とをきちんと現代に再現させることは、意味のないことではないと思っている次第です。
<我が研究者人生を振り返る>
○志摩陽伍先生からいただいたお言葉(2010年秋)をきっかけとして、我が研究者人生を振り返って見た。振り返ってどうするという宛てもないけれど、「今」がどういうものなのかを考えるよすがにしてみたい。
○志摩先生にいただいたお言葉というのは、「あなたの、若い頃のあの輝きはただそれだけでしか無かったのだと思っていた」というのだった。「若い頃」というのは直接的には埼玉大学勤務期を指している。
 埼玉大学勤務は、1976年4月から1990年10月までの14年間。ただし、1985年4月からは教育学部附属教育実践研究指導センターに「助教授」のまま配置換え(実質的には「降格」となる。清水寛先生曰く「何も悪いことしていないのに左遷だものなあ」)。ぼくの意識の中にもセンターへの配置換えによってそれまでの教育学研究者としての研究方法、研究対象を根こそぎ奪われたという思いが強くあり、生き方に誇りを持つことがなかった時代だ。日常は絶対に飲まない酒をあおりもしたなあ。
 だから、志摩先生の印象に残っているぼくは、1985年ごろまでのことなのだろう。生活綴方教育史研究者、生活指導研究者として著書を出し、研究会や学会を中核として支え、ジャーナリズムにも幾度か顔を出していた。テレビ埼玉では番組制作にも関わった。学生指導でも全国的な注目を浴び、「埼大に川口ゼミあり」と評判を立てられていた。今でも、ネット上で、「埼玉大学の川口ゼミ報告集を手に入れたくて、全教ゼミに参加しました」などと声を掛けられることがある。エネルギッシュな30代半ばから40代前半期を過ごしていた。
○この期に著した代表的な著書は
1980年 生活綴方研究
1982年 子どもが生きる教育 頽廃の構図と創造の視点
1984年 青年教師の自立と教育実践 未来の教師のために
1986年 教師像の探究 子どもと生きる教師の創造
○「過去の栄光」にしがみつくほどバカではないという意識が、何とかぼくを支えてはいたが、現状を逃れて新しい自分をどう創るか。戦前生活綴方教育史研究でたいそう親しくしていただいていた碓井岑夫先生から「人を探している。適切な人を紹介して欲しい。」という依頼の電話をいただいたのがきっかけとなり、碓井先生の勤務校和歌山大学に転じる選択が一つ。そして、志摩陽伍先生から研究的に提案されていたアメリカの言語教育運動ホール・ランゲージと日本の生活綴方とをつなぐ架け橋を本気になって作るという選択が一つ。
 和歌山大学には1989年10月から勤務し、1991年4月から教育学部附属教育実践研究指導センター長を務め、翌年1992年3月まで籍を置いた。心から楽しいと思える勤務環境をいただいたことに感謝するばかりだった。学生諸君との学び・遊びの日々も非常に充実したものであり、ぼくはゼミを「現代の若者宿」と形容した。
 米日の教育の架け橋の一つとして、ホール・ランゲージ関係書の翻訳作業に力を入れた。英語ドロップアウト人間としては苦しい作業だったが、それしか他にぼくが生きる道を見いだし得なかったので、恥ずかしい話しではあるが、中学校英語から徹底的に独習するなど、がんばり通せた。また、アメリカ合衆国に毎年のごとく出かけるようにもなり、下記翻訳書原著の著者メアリー・キタガワ夫妻、ケネス・グッドマン家族と親しく時を過ごすこともあった。
1990年 教育への新しい挑戦  英語圏における全体言語教育
1991年 書くことによる教育の創造  アメリカ人による生活綴方教育の研究
(後者は埼玉大学のセンター時代から川口ゼミを中心とした共同翻訳作業で進めてた果実。だが、やはり素人集団、訳語が不十分である)
 脱線話。ぼくのアメリカ滞在・研究の最後の日となったのは、2001年9月11日、そう、あの時が最後である。その後はセガン研究に突っ走っている。
○1992年4月から学習院大学に転じ、中高の教員養成に携わったが、研究課題と方法とを定めることができず、いわゆる大学の授業テキストの編著者になるようにいくつかの出版社から要請され、教育原理(教育基礎)、道徳教育、生徒指導、特別活動、生活科教育、情報教育などの仕事はこなしたが、とても研究活動の成果とは言えない。必然的に研究会や学会に一切顔を出さなくなっている。「川口は終わったな」という印象で見られていたのは、当然のことだ。
1994年から2001年までほぼ毎年渡仏して(2000年度1年間はフランス生活)、「フレネ教育」をほんの少しかじったが、一つの例外を除いて(それは日本で知られている「フレネ教育」ではない)、面白くない、と感じていた。こういうぼく自身の内面そのものが「川口は終わった」を証明していたのだろう。
 その代わりというか、「セガン」に夢中になった。2003年以降になる。「セガンを研究して40年」とたびたび言われる清水寛先生の、その研究集大成の助力を乞われてのことがきっかけとなる。
 清水寛先生らの、日本社会事業史学会賞まで受賞したセガン研究が、もともと第一次史料を重んじて研究をしてきたぼくの血を大騒ぎさせた。「実証性がない」と幾度も噛み付き、清水先生を怒らせたこともある。「そんなにまで言うのなら、川口さんの言う実証を行いなさい!」 はいはい、とばかりに、2004年から毎年、夏休み、秋休み、あるいは春休みの期間のうち10日ほどをパリやセガン生誕の地ニエヴル県クラムシーなどで史資料調査を行い、セガンの人生行路を明らかにする決定的な史料の発掘をし遂げた。「今までのセガン研究者は、いや、フランス教育史研究者は一体何をやっていたのか。」
○批判から創造へと舵切りができるようになったのは、2006年2月、パリの目抜き通りシャンゼリーゼの路上で大量吐下血したことをきっかけとして、清水先生との間の距離の取り方に神経を使わなくするようになった2007年以降だろう。それにしても2006年は、2月、11月と、二度パリで倒れ、緊急入院を余儀なくされた。2月は上記した通り、11月は気がついたら救急車の中にいた、という状況。この年こそ、ぼくの「研究者としての再生」準備期であったのだと思う。が、この頃、ネットを通して、ぼくのフランス教育史研究に関わる到達を発表し始めていたが、世間様は「歩くしか能のない教育学者」と、うわさを立てて下さっていた。
 2009年度、学習院で二度目のサヴァティカル権を得た。5月下旬から7月いっぱいはパリで生活し、セガン関係の史資料収集に力を入れた。この滞在で、「セガン」を教育史研究の成果として発表できるだけの史資料を収集することができた。そのフィールドワーク研究の成果によって、一つは、これまでのセガン生育史の国際的誤認を正すことができた。二つは、セガンの白痴教育実践過程を証す公文書の発掘ができたことによって、これもまた国際的な誤認を正すことができた。ようやく、研究者として胸をはってもいいんだ、という気持ちを持つことができた次第。これらの研究成果を『知的障害(イディオ)教育の開拓者セガン―自立から社会化への探究』(新日本出版社、2010年)にまとめた。
 2012年はセガン生誕200周年。もともと清水寛先生が、日本のセガン研究を生誕記念行事として国際シンポジウムが開催されるだろうから、パワーアップして新しいセガン研究の成果をシンポジウムで発表する!と2005年7月2日に「宣言」されたことが、そもそものぼくのセガン研究の出発の儀式のようなものであった。
 しかし、シンポジウムに向けての我が国のセガン研究は、一歩たりとも進展しない。いや、それどころか、「セガン」は忘却の彼方に行ってしまったごとくで、ぼく一人のあがきという結末になった。だが、ぼくのセガン研究は、国際シンポジウムで、スタンディングオーベーションが送られた。ああ、セガン研究を進めてきてよかったなあ、と心から思ったし、ぼくにはその力が残っていたのだと、自己評価もできた。
セガン研究はそれで終わりか?新しい研究課題はないのか?その問いを持ちながらも、もうセガンはいい、やたら建前的正義を振りかざしたがる教育界の居心地の悪さは、もうこのぐらいにしておきたい。
 その後は、民衆が生きる世界の歴史に首を突っ込んでいきたい。じつは権力はそれこそが権力装置を妨害するのだと、折に触れて弾圧に向かう。そして民衆は抵抗する…。そういう民衆史を正面から扱いたい、セガン研究の中で触れた「筏師」(暖房や生活燃料として使われた樫の木の薪材生産と、その最大の消費地パリに、薪材を運行する独特の文化「筏」とその建築者であり運行者である「筏師」の研究が具体的な視野に入っていた。少しばかり、関連資料の収集も行っていた。
 その前に、セガンの白痴教育をモチーフとしたぼくの研究は、じつはその出発が、大学院生時代に始めた上田庄三郎研究であることを改めて自己確認した。それは「権力への戦い」による自己確立の試みを意味する。
 2000年パリに滞在して史料収集に励んだのは、専ら、この「権力への戦い」とそれによる「自己確立の試み」の近代的事例である「パリ・コミューン」であった。これについては史料収集を怠ることをせず、つい近年まで進めていたし、論文としても纏めていた。いずれは著書として世に問題提起したいと思っていた。
 あわせて、セガン研究では、やはり「権力への戦い」とそれによる「自己確立の試み」という枠組みで捉え直す問題提起もし、論文も書いた(「白痴の教師」という専門職の開拓)。
この二つを接合させることによって、ぼくの向後の民衆史研究への問題提起としたいと考え、2014年3月の学習院大学退職期に合わせて、『19世紀フランスにおける教育のための戦い セガン パリ・コミューン』(幻戯書房、2014年)を刊行した。この書の刊行がなった時に、ぼくは脳梗塞に倒れてしまった。あらゆる向後の生活予定はご破算になってしまった。が、大学院時代を含めた約45年の研究者生活は、とりあえず、幕を引くことができた次第。
 ぼくを本物の研究者かどうかと、大学院生時代から見続けて下さった志摩陽伍先生は、2014年の著書に対して、次のような御批評を下さっている。いわゆる「ご祝儀」であろうことは承知していながらも、心から嬉しいと思っている。
「総評の第一は、これは革命的な教育史書であり、貴兄の最高作であろうということです。この一書を書かんとすれば、その集中的努力の前に脳梗塞になるくらいは当たり前であり、この書ならずんば死をも恐れずぐらいの感慨の下に書かれたものと思います。セガン研究とパリ・コミューン研究がなぜ最終的に一つになったかという理由も二度読み通してやっと納得できました。パリの街角を地をはうように歩き、一つ一つの情景やしるしの意味を考え抜き、一次資料の相互関連を既得の知識・経験を総動員しながら考え抜き、構成した苦心のあとがよくわかります。それぞれの部のしめくくりに、セガンの1856年論文、パリ・コミューン下の子どもの状況の原資料をそのまま提示されたことの深い意味も好学の士にはそくそくと迫りうるものでしょう。しかし、それは、本格的に読み考え抜いたものだけが味わいうる楽しみかも知れないけれども。
 セガン研究に徹することによって障害児教育と一般教育学との関係における「社会化」の意味を問うた主題は、前著と併せ吟味することによってますます深まり、また今日まで続く教育の自由と自立、自治の課題は、とくにパリの各自治区の第一級資料の判読によって読者のさまざまな想像力をかきたて、幕末、維新前後の日本の政治・宗教、社会の動乱を含む、死者たちとの対話に私を誘い込みました。
 本書は、教育学の側から提起された、歴史研究一般の問題提起でもあると。日本の教育史研究の課題は、本書のような観点から再考されねばならないとも。」