朝の「お散歩」 引き続く

○「セガン昔ばなし」第2回です。
第2回 http://eseguin.web.fc2.com/pdf/mukasi02.pdf
○今日はビニールゴミ出しの日。西のほうから天気がくずれてきているようなので、朝食前だけど、ついでに、「朝のお散歩」のため、直接児童公園に向かった。体が重く気乗りしなかったが、これから雨が来るとしばらくできなくなるだろうと、意を決した。
○後半、ちょっとおもしろいというか、散歩量増量並びに起伏追加を思いついた。児童公園に接しているミニ児童公園にまで散歩を広げる、ということだ。ほんのちょっと坂道の上り下りがあるのがうれしい。
歩数計では計5500歩弱。1時間強。もちろん無休。
○昨日からしゃっくりが止まらない。夜中の寝ているときは止まっているようなので、一安心ではあるが、ウザったい!何とかしてくれー。シャック!
○PCの仏和・和仏辞典が突然機能しなくなった!ヘルプ・ミー!!!とりあえず紙媒体にすがります。
○「セガン」 第8節の「形状」の個所の中野訳で決定的ともいえる、すなわちセガンの子ども観の本質にかかわる訳語の問題。子どもが対象を認識するのは、その形からではなく、「因習と偏見を生み出す」対象物の「使途から」である、という。子どもは「因習」と「偏見」の中で息づいている存在だ、とでも言いたいのか?そうだとすれば、セガンの子ども観から、今のぼくたちが学ぶ必然性は何もない。「因習」と「偏見」とを叩き潰して理想的な子ども像を作り上げたことを評価すべきだというのか?そうだったとしたら、ぼくは、直ちにセガン研究をやめなければならない。これまでのセガン研究者はこの重大な問題に、誰一人として言及してこなかった。
○この節には、un idiotがしばしば登場する。訳書では「白痴児」としている。一般化して述べていると理解したようだ。ぼくは「ある白痴」とする。つまり、セガンの実践経験の具体が述べられるというのがぼくの理解だ。そうすると、中野訳では現在形の訳文となり、ぼくによれば過去形となる。過去形にしないと意味が通じない。
セガン1843年論文翻訳 第4章第8節 形状
第8節 形状について
要旨―形は、色と同じく、確認しうる物体の極めて重要な状況の一つである。事実、感覚物質と同じぐらいの数の形がある。だが、理論的には、人間がこの形の無限の多様性を少数の名称がつけられる型に、そしてその周辺のものをグルーピングしてまとめてしまわなければ、その被造物はカオス状態だろう。これらの類型化された図形は、たいていのこと、子どもには名前が分かっていない。それは白痴もそうだ。同様に、彼らがあるものと他のものとを区別するのは、形によってではなく、形が産み出される線画や描画という働きによっている。子どもはどのようにして形を区別するのだろうか。型は直接的な有用な価値を有してはいない。色と一緒になって、物質の詩情を表現する。というのは、人間と同じように、ものは優雅で品位があって、詩的である形によっているからである。
 しかし、規則的な型の指導は造形の適性の発達より高い目的を持たないので、このまったく審美的な考察の重要性については触れないこととする。本来の意味でいう趣味に関係する説明に入るかもしれないが、とりあえず、ある白痴にした型の指導がどうであったかを教示しよう。
 方法―色に関してと同様、形に関しても、よく似たものへと行き着くよう、対照から開始される必要がある。たとえば、子どもに、丸形と楕円形、四角形と菱形、八角形と六角形を同時に提示する前に、丸形と四角形、星形と三角形との区別をさせなければならない。
 しかし、ある白痴に対しては、彼がまったく触ることをしないで、線画による差異と類似について示すだけでは不十分だった。彼にそれらを着色したり浮き彫りにしたりして提示したものであっても、触覚、把握能力および模倣の運動が加えられる配慮がなければ、それぞれの特徴に関心を寄せないだろう。
 そのために、指導しようとする型を切りぬいたいくつもの板を用意する。子どもにそれらの形状の一つを手渡す。仮に丸型だとしよう。丸型にはきちんとはまるけれどもほかの型には合わない。丸形を他の型にはめ込むように、彼に指示がなされる。彼が四角い型に丸い形状のものをはめようとしても、どんなにしてもうまくいかない。この型をあの型にと、あれこれ試し、はめ込む先の型と形が合う型に、ようやく行き着くことができるはずだ。くりぬいた型の形状が十分に関心を留めないようなら、平面にくっきりと、強烈な印象を与え、目線を引き付け、それによって子どもに比較を強いるような、色を塗る。
セガン教具 形状について <型はめ> パリ・医学史博物館像:非展示