雨の日の過ごし方

○「セガン昔ばなし」第3回です。
第3回 http://eseguin.web.fc2.com/pdf/mukasi03.pdf
○目覚めで雨戸をあけると雨模様。雨脚は早くないが、外出には相当の気力がいるなあ。
 今日は燃えるゴミの日。ゴミをまとめて、右手に杖、左手に傘。さて、ゴミをどちらの手で持とうか。こんなことに気を配る出発。とりあえず杖とゴミとを一緒にしたが、どうも歩きにくい。傘の方に持ち替えて、ゴミを顔の左下あたりまで持ち上げぶらぶらさせて歩く。なんかなあ。結構重いからすぐ疲れるし。ゴミステーションまでの坂道を登るのは、この姿格好では、なかなか辛おおす。
 ゴミを捨てて帰宅ということになるが、ふと、この雨空で「お散歩」は流れだけど、せめてほんの少しでも歩きましょうか、と思い立ち、児童公園に沿って走る公道をぐるっと一周することにした。約1キロ。今日は左手に傘、右手に杖スタイル。
 15分ほどで帰宅。傘立てに傘をしまうとき、ふと、今日の自分は新しい自分なのではないかと評価した。これまで雨の外出時は、傘の柄を左肩に乗せ弱い握り手を添えて、やっこらせ、と歩いていた。ところが今日はどうだ、傘は担がずおまけに結構な重みのあるゴミ袋を抱え上げていたではないか。
 「左半身不全」全体が、「左半身不全傾向」になってきているのだなあ。まだ一人前の行動はできないけれど、それでも一人含み笑いの今朝の一瞬だった。
○昨日、一昨日と二日間、断続的に続いていた軽いしゃっくりが今朝から症状が出なくなっている。このままであってほしいものだ。脳梗塞の後遺症筋肉けいれんの症状の一種かと恐れてはいる。
○トドちゃん御一行様、湯布院への旅。今日から三日間。ゆっくりとお過ごしになり、お疲れの体をリフレッシュさせてきてください。
○今度の日曜日昼、野田君と会食。新柏までお越しいただくが、そのあとは柏に出るか船橋に出るか。
セガン論文 非常に抽象度の高い原文をどこまでほぐした訳文にするか。読み手の理解力にゆだねることが必要かもしれない。
 第8節のタイトルがAgencement。中野訳文では「配列」とされている。どうも意味がつかみにくい。「整理」としてみたが、いったんそれに確定したが、見返してどうしてもおかしい。文字を語にするとき、その文字群を、何らかの共通的性格を前提として、一つの箱の中にしまい込む。その箱が「語」だ。そういう「一つの箱の中にしまい込む」行為だと理解してみる。だとすれば「整理」は間違い、「配列」の方がよい。「文字を並べて語にする」という意味合いになる。だが、落ち着きがない…。
○「率先遂行」という言葉がぴったりの論述がある。板の組み合わせをあれこれさせるのだが、セガンは、まず師が先にやれ、その際言葉はいらん、とばかりの主張をしている。師が模範を示してから簡単な言葉がけをすればよい、と。ここのところ、中野訳文は、「生徒に板きれ一つを並べさせる前に」などとやっている。訳が分からん。
セガン1843年論文翻訳 第4章第8節 承前、第9節
 生徒がもう間違えないようになったら、板や壁紙に描かれただけの型の上に同じ型を置かせ、これらの型の区別や命名をさせる。色や文字のところで言っているようにして。
 あとで、この型によって得られた観念(notion)と、規則的な形に向けられ、それによって不規則な形に向けられたと同じ手段、同じ方法を取っているアルファベの指導とを、結びつける関係を示す必要があるだろうか。規則的な型の認識によって、子どもは、彼の好みでは無意味な対象物を見分け、命名する。もし彼が、形と名称の差異を受け入れるようなら、これは、普通、子どもから知性そのものを奪い取ってしまうような、本能的な直感がなしたことなのではないと確信してよい。文句なく形成された悟性の力によっているのだ。これによって、以降、思考象徴によって示される知的秩序の事象と接触してもよいことになる。
第9節 組み立て
要旨―典型的な型の学習が子どもにアルファべの心構えとなるのと同じように、子どもは、いわゆる読みで組み立ての心構えをする。前者では、子どもは規則的な型と文字の不均整を学習する。後者では、子どもは、統一体を形成するためにさまざまな部品を組み合わせることによって、いくつもの文字を一つの共同の下で組み合わせることを学習する。そして一つの観念(idée)を形成するためにいくつもの単語を組み合わせることを学習するのである。子どもがその手で創りあげていくであろう組み合わせは、やがて、知的な秩序において、再生産されるだろう。
 方法―組み立てを指導するために、まず、私が非対人模倣のところで用途を勧めておいた板を利用する。まず2枚使用する。生徒にも同じだけ渡す。生徒には板を、2枚が互いに関係しあいながら変化に富んだ位置に置かせる。たとえば、一枚を平たく置き、もう一枚をその上に置く、とか、平たく置いた板の角にくっつけて置くとか。そして、さらに、最初の組み合わせに次々と、板を、1枚、2枚、3枚と加えていく。だがその際、生徒に板が渡されるのは、前の板が置かれてからでなければならない。続いて、3,4,5あるいは5枚の板を組み合わせて何かをつくって見せてから、口をさしはさむだけにする。最後に、生徒に、完全に整った組み合わせを見せ、それを生徒に試みさせ、それを壊し、再び組み合わせをさせる必要がある。
 普通児あるいは単純な遅滞児にたいして、この運動を続けさせる。これは、さまざまな形の木片でなされる遊びの、他の類似のことの魅力がある。門、家、テーブルなどなどを形作るやり方の準備がなされる。教授にとって豊かな泉は生徒にとって注意や進歩の手段が汲みだされる。もちろんそれらすべては、我々が意を配ろうとする平面の観念(notion)を前提としている。