訳語の問題

○「セガン昔ばなし」第5回です。
第5回 http://eseguin.web.fc2.com/pdf/mukasi05.pdf
○粋生倶楽部増尾通所リハビリ。両足モモが固いと、所長さんからケアを受ける。生まれて初めて「テーピング」なるものをの処置をしていただいたが、音声言語の意味内容が理解できなくて、筆談。これもほとんど初めてのことといってよい。補聴器をつけていたんだけどなあ。運動量が多すぎるのか?そのあたりはよく理解できない。
 今日は、中間で、コーヒーを淹れていただいた。同じ「粉」を使っていても、こうも味が変わるのかと思うほど、おいしかった。淹れ方を(訓練を受けながらだったので)こっそり拝見。丹念なお仕事ぶり。
 終わりごろ、所長さんとお話。にぎやかになってきたこの倶楽部。まだまだ、みんなで「作り上げていく過程」にあることを痛感した。ぼくもささやかなお力になることができればいいと思う。が、出しゃばらないように、出しゃばらないように。
○日本語で「教育」とか「教師」といえば、ほぼ、すべての教育事象を説明できる。つまり、「教育」や「教師」はきちんとした概念である。「指導」や「補導」や「教授」や「指導者」という言葉をあえて用意しないでいても、論理を組み立てることができる。
 しかし、ハタと困る現象にぶち当たる。欧米文献ではていねいに使い分けているようなのだ。しかし、その使い分けの「原則」のようなものを、ぼくは掴み得ていない。セガンに即してどうしようか、という悩みを持つ。中野善達氏はそのあたり鷹揚なようで、きちんとした概念として使い分けてもいないし、纏めてもいない。が、誤訳を除けば、セガンの教育論として、ぼくたちは読み解くことができる。
 せめてぼくは、使い分けられた概念そのものに従って訳出をしたい。
 éducation 教育
 enseignement 指導
 maître 先生
 professeur 教授
 instituteur 教師 などなど
○中野訳書 第10節 plan 「平面」としているが「図面」の方が内容的には合致するように思う。
 「子どもを正面に座らせ、平行四辺形の左の角に指を置き、生徒には。。。」とある。なんの?あるいは誰の?「指を置き、生徒には」とある限り、「指を置く」のは生徒ではないが…。原文でon(人一般)とあるので訳出に困難を覚える。生徒とあるから、それに対して「先生」あるいは「あなた(大人)」と理解すれば、困難ではないし、中野は訳を誤っていることを知る。
セガン1843年論文翻訳 第4章第10節 承前
方法―考えられるあらゆる図面で、非常に単純かつ非常に規則的なのは丸と四角である。そして、それらに子どもの注意を向けさせる必要がある。そのために、まず一つの丸と一つの四角、続いて二つの丸と二つの四角が選ばれる。それらは木あるいは厚紙でできている。私はこの運動の第一番目のものに限定して描写しよう。というのは、合わせて2回行われた運動が全く関係のない点の図面上のことであったとはいえ、同じやり方でなされたからである。
 白痴症状が重い場合、まず、四周が全部、高く縁あるいは額どられ、底がくっきりと色塗られた平行四辺形を選ぶ。子どもをあなたの正面に座らせ、あなたは額の左角に指を置き、子どもには右角にその指を置かせる。あなたは指を図面の半分のすべての点に向けて動かす。生徒にも同じ面で同じことをさせる。もし生徒が指の方向にも触れるべき様々な点にも気づかないならば、それらの点の主要なところに絵の具で色とりどりに塗り隠されたパンを置く。図面のそれぞれ半面を相比べ、赤い点の半面に、続いて何も書いていない半面と赤い点の半面との間に、指を置く。最後に、観念(notion)が来次第、これらの印(=色塗られたパン)を取り除く。白と黒交互に49目に分けられた基盤とは別の基盤によって、先生は後者の基盤に指を置き、生徒はそれに対応する基盤に指を置く。指の代わりに、兵士、家、動物、おもちゃを混ぜ合わせて、引き立つように置く。子どもは教授と同じものを扱い、それを、先生が対応する基盤で置いたところと同じと目されるマス目に、置かなければならない。しかし、まずは娯楽から注意力への橋渡しを容易にしはするが、しかし、重要性も成果もなく、好みに合わせて注意力を奪い取ってしまうこの補助物をできるだけ早く、遠ざけなければならない。