久しぶりに野田君と会食

○「セガン昔ばなし」第7回です。
第7回 http://eseguin.web.fc2.com/pdf/mukasi07.pdf
○お昼に新柏で野田君と落ち合う。新柏の沖縄料理店「太陽」でソーキソバ定食(ソバとおにぎりと小さなサーターアンダーギー)、そのあと柏に出て、お茶(やはり目的の店が店外行列。やむを得ず、釜めしの店でスイーツ。そして鯛茶釜めし。休憩フロアーでしばし談笑)、スタバ、締めにラーメン。よく食べました。そしてじっくり語り合いました。ぼくは明日への意力喚起に大いにつながりましたけど、野田君もそうであったらいいなと思います。帰宅9時半過ぎ。家を出るときからしばらく(今日の外出前半)は歩くのが少々辛く思えたが、帰宅時はペースを落とすなく立ち止まり休憩もなく、元気よく歩いた。痛みもない。
セガン1843年論文 いよいよ第4章最終節 絵画。セガンは白痴教育に取り掛かる前には芸術評論で身を立てようとしていた。その本領発揮の個所といえるか。
 それにしても、中野訳文、冒頭から、頭をかしげざるを得ない。「絵は。知的活動の外見を呈するときは本格的な知覚力を鋭敏にさせる。周知のように、ほとんどのものがそのことに気づかないでいるが」のくだりは、意味不明。
セガンは、芸術家のほとんどを「無知者」とするが、この点、訳文も含めて、慎重に扱う必要があろう。
セガン1843年翻訳 第4章第11節 絵画
第11節 絵画
要旨―絵画を見ることは視線にとって強い刺激となる。絵画には一般的に、教育には尊重されないような詩的要素がある。絵画は、一見するだけで知的活動をなさしめるという点で、直感的な知覚を鋭くする。そして、そのほとんどが名高い無知者なのだが、芸術家は、その直感的な知覚のおかげで、サロンの成功のほとんどを得ている(1)。
 普通児にとって、絵画は、知的おもちゃとなりうるが、白痴にとっては、確実かつ合理的な運動材となる。幼児向けのすべてのかわいい絵本は、不幸にも、教育や指導の理念の影響のもとでは、ほとんど作られていない。我らが芸術家の巧みな手は、あまりに独創性になじみすぎており、走り描きで意味のないものを、優雅に素描風に描く。それらは子どものために購入されはするが大人しか楽しまないのだ。確かにアルバムの棚は豊かになる。しかし小さな男の子と女の子はこの飾り絵付きの絵本に、サロンで飛び交わされたと同じ、かわいい冷やかしの言葉をかけるだけである。