翻訳作業 

○「セガン昔ばなし」第8回です。
第8回 http://eseguin.web.fc2.com/pdf/mukasi08.pdf
未完ですが、とりあえず、ここまでがセガンの幼少年期となります。
○粋生倶楽部増尾通所デイサービス。右肩の痛み、コリがひどく、モミ療治などを丹念にしていただいた。コーヒーを淹れる方が他の曜日にも「誕生」したとのことで、賑わいもひとしおというところ。ぼくは豆に凝ることにしようかな。
「体力測定」がなされ、右握力29キロ、左握力24キロと、先月より握力が強くなっている。特に左握力の増加はうれしい。歩行能力は変わらず。
○翻訳は、子どものころは天才といわれ、やがて凡才といわれるわが人生。などという嘆き節をよく耳にするが、まさにそのことに触れている箇所。中野訳文「家族やその友人から御伽噺を機家お説教を受けていた子どもたち」その他。どうにもこうにも、開いた口が塞がらない構文理解と訳文に成り下がっている。この訳者は、子ども論も、認識論もなにも持ち合わせていないと考えるしかない。
○これで第4章の本文はすべて終わりとなる。長い注記を残して。
○1843年論文翻訳 第4章第11節承前
かわいそうな子どもたち。同じように、彼らもほかの者が見るようにしか、他人の判断で判断するようにしか、とどのつまり他人の印象で考えるようにしか、できなくなるのだ。こうした有害な習慣のすべてが彼らの頭の中で、彼らの年齢に見合った本物の知的な活動を占めなければならない場所を、取ってしまう。子どもたちは、7,8歳まで家族の愛で<ちょっとした人間だ>と誉めそやされはするが、次第に成長していく中で、知識の洪水の中に溺れてしまう。観念(idée)を受け取るだけでそれを産み出すことのないような知識だ。
 絵本にすべて問題の源があるというのではない。まだ幼い者に対して、大人が子どもに強いる、出来合いの精神、型にはまった見解、お定まりの美的感覚でまとめられたものこそが、関係している。絵本は、教育の手段ではないために、子ども時代の何よりも天真爛漫で個性的な活動の中で遊びを知るまで、繰り返し持ち込まれてしまうという難点があるのだ 。
方法―本が出来上がるまでに(2)、テーマが段階的な意味を持ち、連続するページでより合わせるよう、絵画をまとめる必要がある。以下のような順序で。1.(私がすでに仮説しておいた)観念(notion)から出発する。直線、曲線、垂直線、水平直線および斜線。
2.これらの観念から形の観念に移る。(形状のところを参照)
3.典型的な形の応用から非常に単純な絵画へ、車や家の絵画のような。
4.大きさ、形、色、どう猛さ、有用性、知性に応じた動物の区別について。
5.子どもの様々な遊びと運動、ほこりある身分と職業の人たちの仕事を、幾枚かの紙にまとめ、怠惰に暮らす人たちの悲惨さの表象を注意深く見させる。
 およそ以上のような絵本の計画となろう。この中で、子どもたちは、道徳観念(notions morales)、実践観(idées pratiques)、ならびにそれぞれの絵画の様々な主題を探し出会うことの楽しみを、同時に発見するのである。