セガン翻訳第2部着手

○右肩周辺が夜半にきつくうずき、安眠できないのが続く。古い腫れに代わり新しいのが出てきているがそのせい。広がりを見せないことを願っている。今朝は洗顔、トイレ、そして血圧を測り(正常値内)、朝食、服薬を終えて、マッサージ機のソファーで痛みをあまり強く感じない姿勢を取り睡眠。夢さん、弘美君の出勤に気づきませんでした。ごめんなさい。
○10時から翻訳に着手。第2部第5章。さっそく中野訳書の問題点に出会う。celle du tracé, ou délinéamentation の訳をいとも簡単に「線の観念」とやっている。délinéamentation が仏和辞典に載っていないから省略したのか、tracéと合わせて「線」とやったのか。語学の専門家を強く自称するのなら、こんなバカな手抜きをしてはならない。
○つけ加え。tous les points assignables du tableauの訳。中野は「黒板のあらゆる任意な点」とする。plan(平面、図面、地図)が主題のところにいきなり「黒板」とするのか?tableauは、多義の単語、表、黒板、絵画、などなど。文脈で理解するしかないのだが。さらに、これは完全に意訳、しかし誤訳。ecritureを製図や作図という訳語を与えている。中野は、「これは絵の章なのだが、どうやら作図的な内容を強調しているようだ」と読み取り、すべてをそちらに無理矢理引きつけて読んでいる。しかし、以前の章から考えれば、絵画指導を文字指導に発展させていくセガンの指導構想があることに気づくはずであるから、ecritureを辞書にも載っていない製図や作図の意味をあてる必要もあるまいに。「文字」もしくは「書き方」。もう、言いますよ、我らが同窓の大先輩で語学の達人と怖れられているこの方、ほんまアホやナー。
○ふと、思い出した。セガンが超エリートの道からそれてこれまで誰も思いもしなかった「法学部」に学籍を置いていたことを証す学籍簿を(ぼくが)見いだし、そのことをS先生に報告したところ、「それはセガンが人権に目覚めたからです」と即応された。ナポレオンI世による中高等教育改革の元で新設されたフランスの「法学部」は実務法学であり、人権思想とは縁もゆかりもない、「ああ言えばこう言う」詭弁を論ずる法廷弁護士か、せいぜい中級役人養成学だというフランス史学の常識さえ身につけておられないことが、この対応ではっきり分かり、ああこの先生にはセガンを語る資格がないな、と強く感じたものだ。中野訳書と同じような誤りの元で、セガンを聞かされてきたS先生のお弟子さんたちを、かわいそうだと思う。
セガン1843年論文翻訳 第2部第5章
第2部
第5章  線画
要旨 ― 線画を描くためには、第一に得るべき概念は、重要性の順序に従って、線画を描き込むための地図(plan)の概念である。第二は線を引くあるいは輪郭を描くことの概念である。前者によって、子どもは平面地形の認識を得、指や目で、記号を書き込むところの場の高、低、右、左、中央を区別し、後者によって、子どもは、手を置いたり移動させたりして、絵を配置しうる点のすべてを、彼がまったく知らなかったあらゆることを、学習する。地形と線を引く方向性(direction)のこれら二つの概念の中に、文字のすべて、線画のすべて、線による創作品のすべての基礎概念がある。これら二つの概念は相関的である。線が体系的であり合理的な方向性の下に引かれる時のみ、その名に値するという意味において、その両者の関係が線を引く観念、能力を生成する。方向性無き線引きは線ではない。偶然産み出されたものは線とは呼ばない。
 反対に、合理的線引きは線と呼べる。というのは、それは方向性を持っているからである。それで、あらゆる文字あるいは線画は、一本の線がたどる様々な指定された方向性の組み合わせ以外の何ものでもないのだから、いわゆる書き方の前に、通常児が直観によって得る地図と線引きとのこれらの概念を、強調しておかなければならない。しかし、白痴に対して、これらの概念は、地図や線引きをあれこれ適用することによって感性的に与えられなければならない。体系的な線画によって、白痴たちは地図のあらゆる部位と合理的な接触に入る。その上模倣によって、始めに単純な線引きを、続いて複雑な線引きを為すようになるだろう。彼らは以下のことを次々と学習する。1.様々な種類の線を引くこと、2.地図に関係させて、様々な方向に、異なる地点に、線を引くこと、3.単純な図から複雑な図への次第に形を作るためにこれらの線を纏めること。
 同様に、子どもたちは、まず、直線と曲線との見分け、水平と垂直との見分け、無限にある様々な斜線の見分けを学習させられるのである。最後には、一つの像を形作りための2本以上の線の主要な交点を学ばされる。