多少の疲れがあるかな

セガン研究話(3)
 セガンを語るどの研究も、多少、セガンの「ルーツ」を書いていた。ほぼ皆同じだから、話の出所が同じなのだろう。共通しているというのは、1.セガン家は代々が医療を営む名家である、2.しかも、その世界では最高位を究めている、というところだ。しかし、3.母系には一切触れられていない。
 3.などは、なるほど、さすがフランスだな、父権社会だからなあ、と妙な感心をしたものだ。そして、それをそっくり真似してセガンのルーツをつづっている我が国の研究者たちも、父権社会論に平伏しているってわけだ。たぶん、ぼくがセガンにこだわりを持ち始めたのも、ここらへんに発端があるように思う。
 セガンという名に触れ、セガンにまつわる様々な話の「検証」を手掛け始めたのが2003年。とにかく、優れた環境、両親の愛によってはぐくまれて育った幼少年期、何の矛盾もなく社会問題に強い意識を持つようになった青年期、そして偶然の機会を必然にした白痴教育。社会から尊敬され、敬愛され、身銭を投じて貧困者に愛を注いだ人間性そして実践性。間違いなく「良い子の道徳」本のモデル。
 内面からむらむらとするものが沸き起こってくるのを感じた。セガンに対してではない、セガンを見る研究者たちの姿に、だ。
○今日のトドちゃんに支援をいただく外出は近場の船橋東武デパートの食品売り場など。お昼には子カピちゃん情報おすすめだという京粕漬魚久の船橋出店でさわら・サケ等の粕漬定食をいただいた。時間が早かったこともあり、今日の第一号客であったようだ。本当においしゅうございました。今夜のおかずにとコロッケを購入。こちらはまだいただいていませんが、きっとおいしいことだと思います。そのあと、お茶して〔というか、かき氷して〕、いろいろとお話しをして、帰宅しました。左足の具合は思わしくありません。困ったものだなあ。
○帰宅したらさる人から封書。お送りした翻訳についてのご意見がいただけたのかと喜び勇んで開封したが、ぼくが期待する主題には何一つお応えなく、ご自身が新聞で取材されている、まあいま時にはクリーンヒットな、戦争は精神を狂わせる、という主題の記事コピー。ベトナム戦争後遺症で一時期かなり大きな話題にはなっていますから、わが国ではすでに知られた「戦争犯罪」問題ですね。「…かつて教壇に立った埼玉大学構内のベンチに腰を下ろし、厚い資料をめくりながら語った・・」。なかなか文才のある記者さんによる取材だったようです。やれ、めでたやめでたや。
セガン研究話(挿話)
 「セガン」の名にまつわる話なのです。ぼくが「セガン」を知り、研究的にかかわり始めたごく初期は「エドゥアール・オネジム・セガン」だと教えられました。つまり、エドゥアールがファースト・ネーム、オネジムがミドル・ネーム、セガンがラスト・ネーム。日本はミドル・ネームになじみがありませんから、どういう意味付けなのだろうと考えてしまいます。宗教的な意味を持たせたり、両親のいずれかの名をつけたり…色々あるようです。ちなみに、「オネジム」は父親のファースト・ネームと同じです。
 ところが、彼の出生証明書(要するに戸籍届)が見いだされて、父親が戸籍係に届け出たことが判明したのですが、父親は「生まれた子どものファースト・ネームをOnesime-Edouardとする」と届け出ているのです。慣習的な日本語表現にしますと、「オネジム=エドゥアール」となります。つまりセガンの「正式」の名前表現は
 オネジム=エドゥアール・セガ
 であるわけです。しかし、これまで、セガン自身を含めて、そのように彼の名前を書く人は誰一人としていないのです。研究的には当然優先順位第一位に、セガンを紹介する文章の冒頭に、この戸籍名が記されなければなりませんが、そうしているのはぼくぐらいなものです。まことに不思議な現象です。それよりも、出所不明のエドゥアール・オネジウム・セガンが一部の研究者の間でしたり顔で使われているのです。「オネジウム」Onesiumというのはラテン語名です。中世から近世にかけて、ヨーロッパの知識人階層は自分の名をラテン語名にしている例が数多く見られますが、セガンを権威づけたい人たちがそうしたのだろうと推測しますが、セガン自身は一切使っておりません。