朝の無杖お散歩

セガン研究話(5)
 セガンは自伝を書かなかった。しかし、1843年著書、あるいは1875年著書にはちらちらと自分史に関わることを綴っている。そのうち、1875年に綴られた「エミール」流儀の子育てを父親から受けたという記述は、これまでの研究史で、セガンの「原体験」として宝物のように扱われてきた。だいたい、幼年期、少年期前期相当記述が、一文節内に収められて綴られている。言ってみれば、家を出かける時は幼児期で、帰宅したら学童期、という感じだ。セガンの生年から考えると1810年代半ばから1820年にいたる年代ということになる。通常の歴史学的常識から考えれば、ちょっと無理がある設定である。
 しかし、パリの医学校でかの改革派医師ピネルの薫陶を受けたことやかの野生児教育で世界をあっといわせ多くの学問分野を急速に前進させた(とりわけ心理学に与えた影響が大きい)イタールと親交があったことなど(いずれもその実質がどうであったかは今も不明だが)、清水寛ら進歩派の障害児教育研究者の感性をぎゅっとつかまえて離さなかったのが、セガンが語るところのエミール流儀子育ての主、医学博士で「地域の古くからの名門の主」ジャック・オネジム・セガンだ。その上、彼は、2人の息子―エドゥアールとその弟ーとを医学博士にまで育て上げている。
 だから、クリティークということなど思いもしなかったのだろう。盲信。ぼくが清水寛に疑念を示したところ、「セガンが嘘つきだというのですか!」と、反応した。清水寛が言ったこととして、活字化されていないことは引用するなと強い命令をいただいたが、こればかりは、明言しておきたい。
○午前7時半過ぎ、児童公園での無杖お散歩に出かけたところ、すでに少年サッカーが試合準備中!なんと。朝から少年諸君、そして過保護母親諸君、ご苦労さまなこって。自分のガキがボール蹴ってる姿を見て半日暮らすってのはどうなのかしらね。
 公園でのお散歩は断念して、ご近所町内を無杖で歩くことにした。イヤー、久しぶりッス。車がとにかくひやひやもの。約3000歩、児童公園だと4周分だ。左脚が不安定。
セガン1843年論文翻訳 第5章 承前
 垂線は非常に複雑な比較概念があると思われる。曲線は地図と関係するが、曲線による線の学習を始める時はとても見定めにくく、難しい。それで、非常に単純な線はまっすぐな垂線であり、以下に私がその観念をわからせてきたやり方がある。
 第一の幾何的な決まりは次のことである。ある点から次の点へは、まっすぐな一本の線しか引くことができない、ということ。手のみが証明できるこの公理から出発するために、私は掲示板に二つの点を定めた。そしてその2点を一本の垂線で結んだ。子どもたちは、私が彼らの前で掲示板に入念に記したと同様に、二つの点の間を結ぼうと試みた。だが、ある子どもたちは下方点の右側に垂線を引きおろし、別の者たちは左側という具合であり、その上さらに、手が掲示板の上でまさにたわごとを言う者たちであった。手よりもむしろ知性と目線に多く見られる、こうした脱線を阻止するために、先生は、2本の垂線を、子どもが別の2本に平行な一本の線で結び合わせるはずの点の右と左に引く際に図面の測定幅を狭めるようにする。(二本の垂線は、言うなれば、子どもたちに手すりの役に立つためにあるのだ。)もしこの2本の線が不十分なら、掲示板に、手の脱線を絶対に止めさせる可動性の2本の物差しを垂直に取り付ける。だが、これらの障害物は長くは有効ではない。まず、2本の物差しを取り払い、平行線の使用に戻る。白痴は、平行線の間に第3の垂線を挿入するのに手間取ることはないはずだ。次に、指導のための2本の垂線のうち1本を取り除く。ある時は右のそれ、またある時は左のそれ、最後には、生じたいずれかの脱線に対置するそれを取り除く。ある時は右のそれ、またある時は左のそれ。これは生じたいずれかの脱線に対置するそれを取り除くためである。最後に、残された一本を取り除く、続いて2つの点も。線引きと手の出発点となった高いほうの点を消すことで始まり、子どもは、何の支点もなく、何の比較点もなく、垂線を引くことを、単独で、学ぶのである。