久しぶりの外出

セガン研究話(10)
 オセールは2004年11月に、セガンがこの地のコレージュに在籍していたことがある、という情報を得て訪問したことがあり、その歴史的たたずまいの美しさに魅了されていた。2009年6月、再訪問となった。
 観光案内所でフランス革命ごろの人物調査をしたいと案内を乞うたら、ヨンヌ県にかかわることならヨンヌ県立古文書館、オセール市にかかわることなら市役所内にある市の古文書館(要するに戸籍係)、と示唆をいただいた。戸籍係をなるほど市の古文書館というわけだ、市役所敷地内に独立建築物としてそれがあった。
 窓口応対のマダムに調査の趣旨を話しし、おおよその時代区分つまり、フランス革命期以降50年間分の戸籍簿〔死亡証明〕を閲覧した。クーランジュと同じく年代別人名索引でまず該当者を探し、本票で該当者の詳細を読解する。詳細には、該当者の死亡場所〔住所〕その他が記されているが、例によって例のごとし、フランス語筆記体!ここでも、係員の懇切丁寧な解読のお世話をいただくこととなる。
 セガンの祖母マリ・アーネス・ペロニエはデ・ベル・フィユ通り2番で1827年9月25日に亡くなっていた。セガンが15歳の年である。1825年にセガンはオセールの伝統名門校コレージュ・ジャック・アミヨに在籍していた記録があることと併せ考えれば、セガンが「私は祖母の家に自室を持っていた」と綴っているところの「祖母の家」とは、オセール、デ・ベル・フィユ通り2番の家のこととほぼ断定できよう。この地名は消失しているが、その後の文献調査で、「祖母の家」は17世紀建築物であり現存していることが判明している。
 セガンがオセールの祖母の家で自室を持っていたのは、コレージュ在学のためのいわば寄宿だったのか?それとも別の何かわけがあるのか?この問いを持ったことが、セガンの成育史上の重大な課題と行き当たることとなる。
○トドちゃんの支援をいただき、船橋東武の物産展へ。今回は、富山・石川・福井。すさまじい人出。昨日初日だったが荒れた天気でみなさん今日の良い天気を待ちかねていたのだろう。烏骨鶏カステラ、ノドグロ棒寿司などを購入。今度のシルバーウイークにトドちゃん親子、アメリカのデズニーランドに行かれるとのこと。ぼくは、アメリカもディズニーランドも魅力を感じないが、旅にお出かけ、というのにすごくあこがれる。いいなあ。お帰りになるまで、直接お会いする機会はない。気を付けてお出かけください。