通所リハビリ

セガン研究話(11)
 「セガンは幼少期を父母の愛に包まれて幸せに過ごした」と松矢勝宏は、セガン1846年著書抄訳書の解説で綴っている。セガンが『エミール』流儀の子育てを受けたという論理から導かれているから、セガンは、近代家族形態に従った養育を得た、ということが前提になっていることは明らかである。しかし、近世ブルジョアジーの養育を得た両親がともに近代的な家族関係に進んだとは、ぼくにはどうしても思われなかった。
 ややステレオタイプ的な描き方だけれど、近世ブルジョアジーは、大方が、金の力を借りて貴族になりたかったのではないか?身分としての貴族になれなくとも、生活を貴族的にすることでその夢をかなえようとしたのではないか。
 フランス革命が、とりわけ『エミール』好きのロベスピエールが、そうした近世ブルジョアジーを粛清にかかったのではないか?それほどに近代家族を形成するには強権的であったのではないか?
 これまた『エミール』好きのナポレオンI世の、いわゆる『ナポレオン民法典』(日本の民法の生みの親)の出現によって、近代家族形態は法制度的に進出したばかりではないのか?
 端的に言えば、「母親が授乳・子育てをする」という<今風の養育観>はロベスピエールやナポレオンによって強制的に作り出されたものであり、それが一般的になる(一般の風潮)のは、セガンの両親の誕生より1世紀も後のことでしかない。それを「セガン」に自明のごとくあてはめて「父母の愛に包まれて幸せに過ごした」と言い切ってしまうこと、そのことにすべての論理をかぶせることは、果たして研究のすることなのか。
 1875年著書に綴った幼少年期の「回想」記がこうした近代家族論記述の大前提になっていることは言うまでもない。そして、清水寛のように、セガンの教育論そのものの原点にある、とする研究を生み出してもいる。
 ぼくは、ロベスピエールによってギロチン台の露と消されてしまった3人の女性の生き方に被せられた罪状「女のくせに男の世界に口を出した」が「近代的女性差別」の大いなる踏み台にされたことは、セガンの幼少期論を論ずるにあたって、無視しえないことであった。果たして、セガンの成育史にそれを実証しうるものを見出しえるか?
○朝方「かなり大きな揺れ」(細君談)があったそうな。ぼくは何も知らずに白河夜船。
○粋生倶楽部通所リハビリ。今日は久しぶりの少人数。コーヒー淹れから始まる。「いれたての温かいコーヒーを飲みたい」との希望も出され、お応えする喜びも増えた。自転車漕ぎ20分、全身マッサージ、歩行訓練、つま先立ち訓練、あったか姫、最後にストレッチ板。これは途中で悲鳴を上げ中断してもらった。たぶん、訓練の中断要請は初めてのこと。腰から下の状況(骨格、肉付)を丹念に所長さんに診てもらい、歩行姿勢の問題点を明らかにしてもらった。要は骨盤のゆがみからくる腰骨の異常。それに大きく起因する筋肉のゆがみ。それらの矯正が必要。2006年に整骨体操に通ったことをふと思い出した。今は、所長さんのご判断とご指示に従います。
○ゴルフボールコロコロができるようになったと報告し、実践。たいそう褒められました。「リハビリを全面的に依拠して行うことは時間数などから困難なので、週に計6時間行っていただく中でのご指示に自宅で実践可能なものを探り、自宅実践中はご指示を脳内で再生し、その声に従う…」というようなお返しをした。
セガン翻訳で、大変な気づきか?
セガンは四角形より三角形の方が人間の認識に容易であり、それは古代エジプトのモニュメントなどに描かれていることでわかる、としている。この認識を「私の記憶を探れば…」という文脈の中にある。まさかセガンが古代エジプト人の再来というのでもあるまい(霊媒師)。サン=シモン主義者たちはアンファンタンを中心にして、エジプトにわたり、調査・発掘をしていた時期がある。ぼくはセガンをアンファンタンの系譜につながると認識していなかったから見落としていた。セガン史の空白の一時期を埋めることができるかもしれない!中野訳文では「私は、いたるところで、時代的に、三角形が四角形に先行している古代の記念碑を想起し」とある。「想起し」の原文はmes souvenirs。明らかに「私の記憶(私の思い出)」なのだ。
セガンがサン=シモン主義家族の一員となったのは1831年のこと。サン=シモニアンとしての彼の活動はほとんどわかっていない。彼の手になる白痴教育は「サン=シモン教が生み出した」とセガンが述べるなど、セガンはサン=シモニアンを自覚していたことは確かなのだが。ぼくはサン=シモン主義者たちが政治的改革運動を進めた痕跡の中にセガンの姿を求めて研究を進め、その成果は2010年刊行の著書の第2章の主たるテーマとして綴った。しかし、第1次資料で足跡を見出すことができるのは、1832年8月の故郷クラムシーでの徴兵検査の次は1836年の「ラ・プレス」紙8月期への芸術論の寄稿である。そして後年の回想で「死ぬほどの病から立ち直り」白痴教育の道に進んだのが、推定1837年。
*アンファンタンは1832年から1837年までサン=シモン主義者を引き連れてエジプトにわたっている。スエズ運河建設のためだ。と同時に、古代エジプト文明の発掘も行っている。「サン=シモン史」書物の中に綴られた同行者氏名の中にはセガンは入っていない。すべてのメンバーが記載されているわけではないので、ひょっとしたら、セガンが記述漏れであるのかもしれない、とも考える。このエジプト行きでコレラ禍にあった者もいることが記録されているから、セガンもその可能性があったと考えても不思議ではない。
*今のところ考えられるのは以上。