児童公園散歩だが・・・

セガン研究話(15)
 セガンがオセールとパリの名門中等学校に就学していたことは、セガンへの弔辞の中ですでに触れられている。しかし、セガン自身は、オセールのコレージュ、ジャック・アミヨ校のことしか著作の中で触れていないから―1875年著書に「古い時代の修道院を思わせる建築物」という表現でのみ登場する―、この期について、セガンはあまり語るものを持たなかったのだろうと思う。先にも触れたように、フランス社会に伝統的な乳母・里親・家庭教師の子育て・教育のシステムと内容・方法について強烈な批判意識を持っていたし、「現代の学校nos écoles」もその基本の上に成り立っているということも触れている。要するに、記憶暗記主義、体罰主義、24時間の管理主義だったということだ。弔辞では「非常に申し分のない教育を受けた」と評されているのだが。
 1990年代までのセガン研究では、この後、セガンは医学校に進み、内科学・外科学を修めた、とする説が支配的であった。セガンが、白痴教育の道に進む過程を回想している中でイタールと出会い、イタールの死後は精神科医として当代第一のエスキロルのところに通ったことを綴っていることから、史料が何も発掘されていない段階では、こう考えるのが常識であったのだろう。津曲裕次などは、医学校での学びが優秀であったからエスキロルに見いだされ、白痴教育を任された云々と、彼の初期セガン研究論文で綴っている。
 セガン研究を1960年代から今日まで続けてきている津曲をターゲットにして研究方法論を分析すると、ぼくらの世界で言う「第二次史料」(当事を直接説明する資料ではないが、当事を理解する上では意味ある研究資料とされている)を丹念に収集し、分析していることが分かる。しかし、これを津曲から離れて客観的に評価すると、「第二次史料」の読み方ひとつで歴史的事実評価ががらりと変わってしまう、という危険性がある。そして、わがセガン研究の世界は、その危険な穴に落ち込んでしまっていたのだ。
 セガンの成育史における「第二の神話」がこうして誕生していた。
○朝のうち、児童公園散歩。昨日のサッカーボールキックがよくなかったようで、左足が痛く、散歩を長く続けられないと判断し、4周、3400歩、45分で中止。午後にもやる予定。焦らない焦らない。
○雲行きも怪しくなっているようなので、午前中に再度の散歩。と言っても明日からの昼食用の「おかず」がないこともあり、新柏東武スーパーへ。朝のうちほどの脚の痛みはないが、足取りは決して軽くない。時折無杖歩きを入れた。約1時間、4000歩強。
○頭がまったく働かん。「単語一つでも!」という言葉に背中を押されて、セガンを読もう!とりあえず1段落やりましょう。頭が働かない言い訳になるか?とにかく抽象度が高い表現。記号としての表現の変遷を簡素に述べている書き出し。中野訳文は意味が取れていない。中には全く逆の意味でとらえている単語理解がある。
セガン1843年論文翻訳 第7章
第7章 読み方
要旨― 思考を記号によって表す技術が、今もなお、直接的表現であった初期の慣用記号―類推あるいは因果関係―に基づくのならば、忍耐強くかつ時間をかければ、白痴自身がある程度の量の観念とそれらを表す記号との関係を捕らえることができると、理解されよう。だが、このような書き方の黄金時代は現代から遠く隔たっている。
 簡素化はこの書記体系と縁続きであり、何も教えない(なぜなら事物を読むためには事物を知らなければならないから)、事情に通じた人のみのこの言語は、事物の表現の代わりに言語の表現に置き換えるという、非常に大胆な想定に取って代わられた。