雨の一日、蟄居

セガン研究話(16)
 ほんのひとかけらの情報―それが本人の手になる「回想」であれ、関係する人々の「証言」であれ―から、セガンを歴史的実在人物として説き起こす。これがセガ研究史の大きな特徴だ。この「回想」や「証言」を第二次史料と呼ぶ。もちろん、第二次史料は、それらとは別の視点から諸事実を組み合わせ、セガンの事跡として組み立てていくことに資する歴史的な文献なども含む。例えば「新聞記事」、歴史記述の中に組み込まれた記事(言ってみれば「関係論文」)なども第二次史料となる。それらの第二次史料を基本資料として主題に関係する諸事実などを組み合わせて、ライフヒストリーの部分を構成していく。この構成の時に多いに推論が働く。オリジナリティがここに生まれる。
 ぼくはこれらをすべて否定するという立場にあるわけではない。しかし、ことセガン研究においては、先行するセガン史論を、すべて疑って掛かった。推論に邪念が入っているのではないか、という強い疑念からだ。邪念とは「権威主義」。そのほんのさわりを―
 セガン自身があらゆる文書(未発掘の公文書は除く)に残している名前は、E. Seguin、Edouard Seguin、Edward Seguin (フランス文字であるéは、セガン本人が、使ったり使わなかったりしているため、eに統一した)。ところが、津曲裕次は最初のセガン論(1986年)でEdouard Onesimus Seguinとしている。セガン自身が使った形跡はない、にもかかわらずだ。この根拠は何処にあるのか。ご本人に確かめてはいないが、その源はセガンの訃報記事を載せたニューヨーク・タイムズ紙にあるようだ。同紙の記事はセガンの生地をオセールだと誤報しているが、津曲はそれに従ったセガン生育史を書いてもいることから、このような推論を立てた。この津曲説を採り入れて清水寛は「人物で綴る障害児教育史」の「セガン」の項目を綴っている。また、津曲より早く中野善達は訳書(1980年)の「訳者あとがき」でそのようにしている、などなど。いかにもラテン語名らしく、学識豊かな歴史的人物であることを示しているではないか。
 こうした「権威主義」的な姿勢が(それはセガンを記述する人間の内部の問題であろうが)、第二次史料を読み取り、論理を組み立てる時に、自然と滲み出て綴られた、それがこれまでのセガン史であった、とぼくは断定する。セガンについて何も知らない、関係する問題についても何ら意識を持ってこなかったぼくには、セガン史研究がどうしても、セガンを「お高いところに祭り上げる」強い姿勢があると、感じられたのだ。だから、つねに口にした、「実証性がない」と。
セガン1843年論文翻訳 第7章 承前
印刷術の発見を生みだした革命よりももっと重要なこの革命によって、書くことは、従って読むことも、精神を付与された、と言えよう。非常に限られた音と表象との間に前提とされた慣例的な関係を知れば、あらゆる世界が、読むことによって理解したとまったく同じように、摑み取られるのである。
 しかし残念ながら、このまぶしいばかりの発見の出発点において、われわれも、また等しく白痴たちもそうだということをけっして忘れてはならないのだが、書き文字と話し文字との間には仮説という深淵があるということである。どのような関係もそれらを結びつけない、それらを同一視しない。どのような論理も、音をそのまま他のものにというよりはむしろそのまま形象に割りふりはしない。形象文字風の書記においては、名称と事物との間に、理解と記憶の驚くべ作用因、形象があるのみである。対称的に、アルファベット書記においては、名称と事物の間に、客体を伴う論理によって割り当てうる関係を一切持たない、変で気ままな記号があるのだ。この二つの考察が、3000年以上も受け入れられてきたこの光明が、文明とまさに同じに生きている20分の1以上の人のために、なぜ輝かないのかを説明するには十分なように、私には思われる。そして、この二つの考察は、なぜ私が白痴たちに、読み書きを支えている概念の手ほどき―ことの必然に従えば、既知が未知を導く―をしないうちには読み書きを教えようとしないのかの、確かな説明になるのだ。これらの概念は次のとおりである。
1.平面について、2.色について、3.線の抽象について、4.大きさについて、5.形状について、6.名称と形との関係について、7.形と名称との関係について、8.ただの一音あるいは音節の発出といくつもの記号との関係について、9.いくつもの記号と相次ぐいくつもの調音との関係について、10、書き発音することばとそれが意味する観念との関係について。
 最初の5つは描き書くことで時間を費やすことになる。知りうることと歴史書によって、私が専用のアルファベットを作成した。
○今朝も補助具無しで布団から立ち上がることができた。大きな一歩だ。
○階段を左右交互に50回脚の上げ下げ。