新しい不幸な日本の夜明け

○「戦争法案」未明、参院可決。日本の新しい不幸の出発。しかし、自由と平和、民主主義を限りなく求め続ける戦いの隊列に加わり続ける。
○粋生倶楽部増尾通所リハビリ 今日は3人と少人数。コーヒー淹れ。今日から所長さん御用達のモカ。足首マッサージ。丹念にやっていただきました。全身マッサージ。ストレッチボード、あったか姫。自転車漕ぎ。20分漕ぐとおよそ2キロ半の道のりとなる。爪先立ち、踵立ち、ゴルフボールゴロゴロ。疲れました。アンケート用紙を渡されたのに、置き忘れてきたほど。
セガン研究話(17)
 しつこいようだが、セガン研究で先輩研究者たちに「刷り込み」がなされていたことを、今一度、整理してみよう。
1.セガン家は代々医師の家系である。
2.両親はルソー『エミール』に造詣が深く、我が子をその方針で育てた。
3.特に父親は「アヴェロンの野生児」のイタールと、若き日、医学研究の場を共通にしていた仲間関係にあった。
4.セガンはパリの名門のリセで優秀な学びをした。
 ここまでが前青年期までのヒストリーとして語られている。さてこの後、セガンいかに生きたか。フランスからアメリカに渡って発表した論文や著書の中でセガン自身が自らを語るのは、サン=シモン主義者およびその周辺の人たちと親密な交流があったらしいことと、白痴教育の開拓に着手した、それにはイタールとエスキロルからの指導・助言があった、ということだけだ。
 我が国初のセガン伝ともいうべき津曲裕次の論文「「白痴の使徒エドワード・セガンの生涯 (1969年、奈良教育大学紀要)に次のようにある。「中等教育を修了した後、医学校で医学と外科学を学んだ。セガンが学んだ医学校がいずれであるかは定かでないけれど、高名な医師の息子として、医師になるためのオーソドックスなコースを歩んでいたようである。そして、彼は、医学校での学業を続けるかたわら、当時二人の高名な医師、イタールとエスキロールに私淑していたらしい。」
 ・・こうして、我が国の研究史における偉大な誤謬から産み落とされた新しいセガンとなったのである。これは、中野善達がまっすぐ継承したセガン像である。<医学に造詣が深く白痴教育という分野を開拓した偉大なセガン>は、中野によって、公設の巨大医療福祉施設ビセートルの中に、白痴学校を創設するほどの実力者に仕立て上げられるまでになった。フランス政府がセガンを白痴学校の教師として招聘したという定説の誕生である。