シェースタイルはまだできぬ

セガン研究話(18)
 セガンが医学校で医学を学んだ、という津曲の論拠は史料で確かめることはできない。つまり、第一次史料も第二次史料もない。第一、時代的に、ナポレオン教育改革によって「医学校」は「医学部」に組織改編されているわけだから、そういう制度的な調査もなされていないとしか思われない。かといって他にセガンの学歴を示す史資料はないから、ことは推論断定で過ぎていく。津曲は2010年のモンテッソーリ学会での講演(「セガンとその教具について」)においても、「医学校(医学部)」説を主張している。なお、津曲はその講演原稿の注記においてぼくの著作があることを示している。それが一切参考にもされていないことは、講演を読めば、明らかなことなのだが。
 ところで、1980年セガン生誕100年祭で、フランスから新しい情報が発信された。それは精神科医ペリシエ(故人)と、テュエイエという主にブルゴーニュをテーマとして研究を進める地方史家によるセガンに関する共同研究だ。その実質はテュエイエの史料発掘に基づいてペリシエが医学史的観点から発言をしているというものだ。この両人の1980年以来のセガンに関する情報発信は、フランス語でセガン研究をしていた松矢勝宏など我が国の障害児教育者たちのセガン史論への発言をがらりと変えてしまった。
 ペリシエ、テュエイエ両人の1980年の著作は、『エドゥアール・セガン(1828-1880)≪白痴の教師≫』と題するもので、まったく新しいセガンのライフヒストリーが綴られている。その中で、セガンは、1841年、彼の妹の結婚式の立会人の一人を務めており、立会人宣誓書の肩書きに「弁護士」と記している、という。付記して、医学部への学籍登録は1843年のことだともある。いうまでもなく、弁護士ということであれば、法学を学んでいなければならない。
 なお、先に紹介した津曲の2010年講演記録の注記にこのぺりシエらの著書名が記されているが、それも読まれた節はないようだ。
 思いもしなかったセガンの新しいキャラクターをセガ研究史家はどのように扱ったのか。残念ながら、あらゆる推論も成り立ち得ないわけで、触れはすれども意味を説くこともしないというのが実情なのだ。
○ぼくの体はいったいどこまで人並みなのか、などと愚にもつかないことを考えながら、立ったまま靴下を履くという試みをしてみた。はい、簡単に結論が出ました。片足では立ち続けられない、いや、立てない、ということがすぐわかりました。あの「シェー」は極めて体が当たり前の人にしかできないポーズなのでした。クスン。
○中野訳文が意味逆転。もう何度目だろうか。
セガン1943年論文翻訳 第7章承前
方法―それは、1枚1枚に彩色された文字が描き込まれた25枚の可動性の厚紙を並べた、一個の整理棚で作られる。それぞれの文字には金属で作ったような文字がぴったりとあわせられる(1)。
 この機動性のあるアルファベットを使って、アルファベットそれ自身が二つの概念に分けられるように、文字の形の概念とその名称の概念とに分けて学習する。この区分は論理的である以上に、すべての白痴に必要であり、まだしゃべれない者たちに欠かせないことである。
 最初の方法すなわち消極的な(2)方法である。まず、2、3枚の金属文字を、次にたくさんの文字を生徒の前に置く。2、3枚の置かれたものの中の文字名が言われると、子どもは、前に置かれたたくさんの文字の中からそれと同じ文字を子ども自身の力で探し出し、整理棚の中に彩色文字に重ね合わせる。このやり方では難しい構音は避けられる。生徒の注意力は、生徒が見つけなければならない像にしっかりと集中され、見つけなければならない文字名だけに意識がいく。ある子どもの最初の学習をもう少しで混乱に落としかねなかったもう一つのこと、それは知性の不足である。
 その後になされる能動的な読み方において、一文字が生徒に示される。生徒は名称に気づき発音しなければならない。私は正しい名称と発音へと連れ戻し、できるだけ易しくすると同時に、ほぼすべての子ども、最初の苦しみならびに辛さに学習をささげたのである。
 この二重の指導形式は漸進的な知的発達をとてもよく促した。名称が言われれば文字を指し示し、そして、文字を提示してもまだその名称は言えないほどに表現力に富んだ生徒が望まれるほどに、私はその発達を導いたのである。しかし、その逆は為しえないはずだ。
(1)この訓練と移動図形のそれとを併せ持つ関連が認められよう。いきなり、方法の力のみで、子どもは、完全な物的な概念から観念項目を作るアルファベット概念へと移行するのだ。
(2)私は、白痴が文字の名称を聞き、像を見分けるだけの指導を消極的と呼ぶ。それに対して、像と名称、名称と像との相互関係を、生徒が頭を使って見つけなければならない指導を積極的と呼ぶ。

 この区分が失敗することがないとしても、文字が生徒にアルファベット順に提示されるような場合では、区分は、その適応価値の大部分を失ってしまう。
 確かに、文字は次の三つのやり方で分類されうる。
 アルファベット順、形状順、構音順。
 私は、第一のアルファベット順は一つでしかないにもかかわらず、その理由を見つけるために無駄な探求をしていたと、正直に認めざるを得ない。第二の形状順はどうかというと、記述アルファベットのカオスのなかで秩序が生み出されるのだと、私は知っている。第三の構音順に対しては、それが文字命名の指導を助けてくれると確信している。それで、次のように結論する。
1.アルファベット順。私にはその理由はわからないけれど、慣例であり嘆かわしいことだと思っている。使うべきではない。
2.形状順は消極的指導に加えられるべきである。
3.構音順は積極的指導に適用できる。