終日自宅

セガン研究話(22)
 せっかく「発掘」した芸術評論も、二つの意味で、ぼくを苦しめることとなった。
 一つは「セガンの文章は詩的で美しい」というもっぱらの評判があるのに対して、文体鑑賞はおろか、ぼくにはさっぱり意味もつかめないものであったこと。フランス語学や19世紀芸術論は正真正銘無知・無教養でございますゆえ。
 あと一つは、セガンに送られた弔辞の中にあった「セガンは文筆でお金を稼ぎ、白痴など恵まれない子どもを養った」ということを裏付けるには程遠い「発掘」点数でしかない、ということだ。フランス国立図書館のアーカイヴズをどれほど検索しても見つからない。とくに、白痴を養ったというのであるから、もしそれが本当なら1837年以降でなければならない。しかし見つかるのは、著書類と小品が1点。著書類はどうやら医学系の自費出版であるらしいから、いわゆる印税が入るはずもない。ちなみに当時の印税は今のような売れたらその分だけ支払われるというのではなく、出版社があらかじめこれはどれぐらい売れるか〔売るか〕という計算をして印税を先払いする方式。それには相当先行投資されていなければならないが、セガンの当時にそのような資質が見込まれていたとは、ぼくには到底思えなかった。
 それに、何よりもまず、セガンのような立場の者(20代、法学部在籍中、政治的社会活動家)が、私的に白痴を養う、ということが法的に制度的にあり得たのか。当時の社会的弱者に対する政策基本は「終生囲い込み」であるから、弔辞にいう前提そのものが成立しないのだ。公共施設〔医療、福祉〕にのみ「白痴を養う」行為は許されていたのだから。「囲い込み」である。
 これもセガンを弔うはなむけ、虚飾言語か?どこかにそう言わしめる源があるのではないか。この疑問をきっかけにして、セガンそのものを「読む」体制をやっととるようになったのは皮肉なものだ。ぼくはセガン研究者ではないから、セガンの中に入り込まない、と公言したことから離脱することになる。
○雨が近づいてきているので、郵便局でお金を下ろす。ついでに新柏東武ストアーへ。今日の「お散歩」なのだ。
○どうにもわからない。津曲裕次「知的障害教育の創始者エドワード・セガンの家族及び生地についての研究ノート」(出典?)の注記で、セガンは、フランス時代もアメリカ時代も、Edouard Onesimus Seguinと名乗っていた、と言う。彼は英語もフランス語も達者でセガンの著書類は目を通しているはずである。現在発掘されているセガンの著書・論文では、執筆者名でそのように記しているものは皆無である。にもかかわらず、「名乗っていた」とするのはどういうことなのだろう。参考文献に、清水寛編著のぼくの書いたものが引用されているがそれは今も強く後悔しているミステークに満ちたものであるが、それでも、Onesimusなどとはしていない。ほかに、Kraft, I. "Edouard Seguin and 19c. Century Moral Treatment of Idiot" BULILETIN OF THE HISTRY OF MEDICENE 36 (5)(1961) 393 を参考文献として挙げている。今、これを入手できないので内容を確かめることはできない。でも、もう一度言う。「名乗っていた」というのなら、その直接証拠を見せてもらいたい。つまり、著書、論文に記された執筆者名だ。