アンケート回答

セガン研究話(23)
 セガンが白痴の子どもを養っていた、その資金は彼が売文などの「仕事」で稼いだ、というのはほぼ定説になっていた。例えば津曲は「文筆活動で、自分と彼が世話を見ている白痴児たちの生計を立てていた」と断言している(1969年論文)。そのことを確認する上で必要なことは、セガンがいつ、どこで、どのようにして白痴教育をしたか、関わったかを明らかにしておくことだ。1837年から始まったそれは、フランス時代いつを終年にすればいいのか、今もなお断定できないが、これまでの研究でおおよそ次の3パターンに纏めることができる。
1.個人的に請け負った実践
2.公認の教育施設(学校)を独力で開設して行った実践
3.施療院・救済院という公的施設に雇用されて行った実践
 このうち、1,と3.についてはセガンが「白痴の子どもを養う」必要はないと考えるべきだろう。すると2.が対象として考えられる。しかし、いわば公開の生徒募集の結果運営されていたであろうから、「白痴の子どもを養った」という言葉の理解のうちには入らないように思う。けれども、運営経費を稼ぐために、「売文等いろんな仕事」に携わったと考えられなくはない。これはあくまでも推論でしかないわけだから、それを裏付けるような情報を得るには、セガンの著書等から文言を探り当てることが必要だと、考えた。
 セがン1846年著書は、いわば、フランス時代の白痴教育の総括書であるから、同書から読みとるのがベストだろうとは思う。しかし、700ページを超えるフランス語文献は正直言って、能力に余るものがある。幸い、抄訳が松矢勝宏の手でなされているので、とりあえずはそれを頼りにして読み進めていった。
○粋生倶楽部増尾へのアンケート回答
1.粋生倶楽部増尾に入所してどこか変わりましたか?
*左手、左脚 *歩行様子 *コミュニケーション能力
2.また、どのように変わりましたか。
*むくみがほとんどなくなった.その結果、しびれ、痛み、冷えがかなり軽減された。*寝姿勢から起き上がる時に補助具を使用せずにすむようになった。*膝、爪先を意識して挙げることができるようになり、引きずり歩き、つまずき、転びが少なくなった。*歩行幅が広がり、通常の歩行姿勢に近づいてきているという実感がある。意識的に杖を使用せず外出することもある。*場の雰囲気に馴染むことができるようになった。
3.今後の目標を教えて下さい。
*身辺のことをさらに進んでやる(例:家周りの掃除など) *求められることをきちんとこなす(例:研究会出席など) *要は社会的自立を進めたい。
セガン1943年論文翻訳 第8章 完了
第8章 読み方―名詞について
要旨―概念だけを用いて、子どもは機械的な読み方に熟達する。それで、やっと最後の概念に到着した。それは、言葉と、観念とその対象との関係を示す概念である。思考の明かりで読み方を照らし出すのを促す機会の到来である。それゆえ、この最後の概念は、後程、実証的方法で重要性と進行とを説明するつもりの未知の要素によって、まったく一時的ではあるが、複雑になる。さしあたって、普通児は機械的な読み方から知的読み方へと思うほどには移行しない、また、相当数の大人は一冊の本が含んでいる観念の20分の1しか読み取らない、と言うだけで充分である。白痴はといえば、普通の方法つまり機械的方法によっては、なおさらのこと、知性的な読み方では、彼らにとっては理解不能のままである。
 では、白痴の知性を文字と言葉が包み込んでいる観念にまでしみこませるためには、どのように学ばせたらよいかを述べよう。
方法―子ども(un enfant)が音節の読みをはじめ、読み方で、ことばすべてを、何よりも、彼が日常使用し、好みとするものの名前を述べようとし始めたら、それらは必ず厚紙に書かれているか、それ以上にいいのは印刷されているかであるべきなので、かならずそうする。子どもがそれらを読み始めたら、かれが思い浮かべる対象物の上に名前カードを置かせる。パン、コップ、ワイン、等々。続いて生徒にものが提示されるが、生徒は、目の前のけっこうたくさん置かれたカードの中の名前を見出さなければならない。
 身の回りのことに対して為されたことを、これまで進めてきたことを振り返りながら、形、色、並びに、一般的に、子どもにすでになじみとなっている概念のような慣習的なことへと、つないでいく。なお、この時に、それぞれのことばの前に置かれたものの助けを借りて、一つの概念や複数の概念が与えられる。だが、私が適用をこれに限定するこの手段はこれだけだということは全くないということを知ってほしい。つまり、観念の領域に入れば、より強く働く手段が見いだされよう。
 今重要なのは、子どもが、ただの一語も理解せずして読む、ということがないことである。そのために、そのことばは、まず、名詞である必要がある。というのは、このことばが表す本質が、しばしば、名前によってものの知覚力を刻印するからである。これは学習を大きくさせるのだが、生徒の社会的条件によって変化がつけられなければならない。知覚力を制限することは許されず、逆に、できるだけ輪を広げることが望まれる。従って、私は次のことを繰り返し繰り返し言う。子どもが必要とするかもしれないあらゆることやあらゆる人は、書かれたり発音されたりで、名前と物の二面のもとで、相関的に提示されるように、と。