通所リハビリの日

セガン研究話(24)
 ターゲットとするセガンの1846年著書は、梅根悟・勝田守一監修の『世界教育学名著選』(明治図書)の第100巻に、我が国のセガン研究の開拓的第一人者松矢勝宏による抄訳版で収載されている。脱線だが、セガンは、この名著選に収録されたことで、我が国の教育学に大きな一席を設けられたことになる。
 同書に求めること、すなわちセガン自身が白痴を養っていたことを示す記述があるかどうか。
 何と、該当しそうな一文があるではないか。養っていたかどうかまでは不明だが、間違いなくセガンは自費の負担によって白痴教育を進めているのだ。訳書に次のようにある。
「(白痴児の教育は)私だけによって、ある時は私財をなげうって、ある時には限られた資力で(実施された)」(133ページ)
 うなるしかない。だが、それはどういう場面で、いつのことかまでは言及されていない。それを確かめなければ決着はつけられない。
 重い腰を上げることにした。幸い、原著はフランス国立図書館のアーカイヴズから求めてあった。しかし、斜め読みでたっぷり1ヶ月は時間をかけたが、ターゲットとなるであろう文言には行き当たらない。もちろんぼくのフランス語力の無さに一番の責があるのだが。
 訳文の前後を何度も読み、盲教育のアユイ、発話法開拓者のペレールについて記述された直後であることをヒントに、再々度、読みをトライした。どうやら、松矢訳文は次の一文のことであるらしいことに行き着いた。セガン原著323ページ記述である。
 par moi, tantôt avec mes seules ressources tantôt avec des ressources restreintes,
 原著にあるressourcesを松矢は、同一文中のそれを「私財」と「資力」というように、金銭的な語として解釈している。確かに仏和辞典によっても第一項目は財源、資力となっている。しかし、どうも合点がいかない。辞典の第二項目資源に置き換えてみたらどうなるか…。
 「私自身によって、ある時は私だけの資料によって、ある時は限られた資料によって」
セガン1843年論文翻訳 第9章
第9章 概念についてと観念について
要旨―私がこれまでの説明から観念という言葉を遠ざけてきたことに、いささかの戸惑いをもって、気付かれよう。その観念は、その定義づけの責を負っている諸学派によれば、非常に多様な現象を示す。私は本書冒頭で、観念を感覚から生ぜしめたロック とコンディヤックの理論を、立像による教育とは別の教育を為す者にとっては、支持できないと述べておいた。
 観念は抽象的な事象のすべてである。観念は精神の本性からなる。なぜなら、それが実体だからだ。つまり、吸収や分泌によってすぐにどんな形にでも変わってしまう肉体のそれよりも疑わしくない、実体である。感性的観念の表題で飾られるもの、それはただ単に概念にすぎない。
 この学習の開始から保持されたこの原理は、我々の最初の学習の終わりまで役に立つ。そして二番目の学習の出発点まで続く。その重要性は、内容において、私の方法のこの簡潔な要約に黙って見過ごしてきてはいない。それは、(後に触れるであろう)意思論とともに、私の心理学的な仕事の手がかりなのである。
 この、概念と観念との間にある確かな区別は、いわゆる知的能力の(取り掛かるのに十分に用心した)分析に集中するものではない。
○粋生倶楽部増尾通所9リハビリ
 いつものようにコーヒーから始まる。所長さんから「キリマンジェロ」のブレンド1カップ分の『差し入れ』があったので最後のモカブレンドして提供。足モミ、足首マッサージ、全身マッサージ、ストレッチ板、つま先立ち、自転車漕ぎ、あったか姫。適宜小物を用いた脚、手の体操。今日は大汗をかいた。
 施設の宣伝パンフレットをいただいてきたので、下に張り付けます。