雨上がり

セガン研究話(25)
 今一度原文を。今度は分析的に眺めてみよう。
 par moi, tantôt avec mes seules ressources tantôt avec des ressources restreintes,
tantôt ・・・ tantôt ・・・ ある時は、…またある時は… を取り除いてみると
*par moi avec mes seules ressources 私のただ一つのresseourcesを用いて(によって)私だけで (mes seules …は「私だけの…」とするのは誤訳だろう、「私のただ一つの…」)
*par moi avec des ressources restreintes 少数の(限られた)resseourcesを用いて(によって)私だけで
 resseourcesを「資金」の意味にせず「資源」の意味にすると、前半は白痴教育の「資源」がただ一つであったといっているし、後半は白痴教育の「資源」は多くなかったことを言っている。つまり、白痴教育の材すなわち白痴の子どもの数は、「一人」であったり「少数」であったりした、ということを述べていると理解したらどうなるか?もう少し丁寧に言えば、セガンの白痴教育は、個人教育か小集団教育かであったということを意味しているのではないか。おそらくセガンはそれには飽き足りない思いを抱えていたのだろう。もっと大勢の、そう総ての白痴に適用できる普遍的な白痴教育を確立したい、と。お金の問題なんかじゃない!
 これは何としても、セガンの白痴教育過程及びその事実を明確にしなければなるまい。今までセガン研究であれこれ言われてきたことをあてにせず、セガン自身が語るところを探り当てたいものだ。再びセガン1846年著書を紐解く…。いや、そう大げさなことではない。前記の内容を確かめるために調査読みしたごく限られた範囲のところに、それが明記されているのだ。
セガン1843年論文 翻訳 第9章 承前
注意、比較、判断と言われる抽象性が明瞭で混乱のない教育の対象であるとしても、それは、統合ないしは分離されるこれらの能力が果たすものと同じなのではない。これらの作用、それはただ非常に実証的であるだけではない。すなわちそれは概念と観念である。
 私は、両者を分かつ違いを述べてみようと思う。それによって私は、実際に、貴重な教育にこだわり続けたのである。
 さて、感覚は概念の直接の作用因であり、知性は観念の直接作用因である。だが、概念と観念との間の主たる相違、それは、前者(概念)が事物の物理的特性を評価するが、後者(観念)はそれらを関連付けることにある。一方は物体の同一性を測るが、他方はそれらの現実的ないしは可能な相関関係を測る。例えば、面前に未知のものを置かれた子どもは感覚によって、そのものの形、構成、大きさ、音、匂い、味の概念を獲得する。だが、彼が観念を獲得するのは、現象を伴った事物と関係する知能によってのみでしかない。また、たとえば、ある子どもあるいはある白痴が、そんなことはどうでもいいのだけれど、鍵という概念をしっかり獲得する、いわゆるこの物をほかの他のもの、テーブルや槌などと区別するようになるのは、彼が鍵と錠との関係を認識した時にいたって鍵という観念を持つようになってこそである。観念は、ここかしこで(もちろん、具体的な秩序において)、二つの概念、鍵と錠との密接な関係、つまり、それらの関係、それらの存在意義、それらの用途の結果である。
 概念によって、子どもは鍵を他の多くの物とを区別し、すべての鍵をそれとは違った物と区別するようになる。観念によって、子どもは、意思を持つようになれば、その用途を知り、それを扱うことができるようになる。
○今夜は中秋の名月。真っ暗闇の中を月光を求めて外に出た。退院以来初めての経験。児童公園までの道のりを恐々。左脚が極端に弱いことに気づいた。倒れないように細心の注意を払って公園へ。月明かりが煌々と森の上に登る。カメラファインダーから覗いたが、シャッターは落ちなかった。帰り路は暗がりの中でもモノの見分けが何とかつくようになっていたが、依然として左脚の不安は大きい。なんか悲しいな。