快晴、通所リハビリの日

セガン研究話(26)
「白痴の教育の最初の取り組みは、エスキロルの指導の下でイタールの下絵を元に作り上げ、続いて、パリ、ピガール通りのつましい施設で、ただ一人で生徒達と実践をした。さらに、不治者救済院の内奥のことなど知らなかったが、ある励ましを得て道を拓くに至った。ビセートルでは本質が教育不能の子(注:てんかん)と敵対的関係に見舞われ、その後はかつて教育した子どもの家庭の相談に乗った。云々」(pp.323-324 <要旨>
 これがセガン自身の綴る白痴教育実践史だ。イタールと偶然に出会いアドリアンという男児の教育を手がけ(1837年)、イタール亡き後は(1838年エスキロルの指導を受けながらアドリアンの教育を続けた。この間、教える子どもはアドリアン以外にも得ることになる(1839年)。それはエスキロルからの委託による女の子だった。エスキロルもまた亡くなり(1840年)、彼は白痴教育の指導者を失ったが、アドリアンの教育の成功に自信と確信を得て、独力で教育を続けていく決意をした。ピガール街のアパートの一角に学校を開設した(1840年)。集まった子どもは最終的に3人。アパートの管理人や大家の妨害のためのようだ。
 ところで、「白痴は教育が可能である」と博士論文で公言した(1824年)医学博士ベロームは、1843年の著書で「セガン氏は公共機関に転身することを決意した。というのも、そこには白痴は大勢おり、また資金が潤沢だからだ」と綴っている。ベロームの指摘するように、セガンは、パリ救済院管理委員会宛に救済院内で、精神科医による医学実験として行われていた白痴教育への何らかの参入を願い出た。その願いは実り、1841年秋から男子不治者救済院に「白痴の教師」として雇用された。日米の研究者はここをサルペトリエール救済院だと誤認し続けているが、その話はまた別に。そして、救済院・施療院改革の一環として男子不治者救済院がビセートル救済院などに統合されることになり、セガンは、男子不治者救済院10人の男児と共に、ビセートルに身を移すことになる(1842年秋)。そこで何人の子どもを教えたのか確たる数字は不明であるが、セガンにとってやっかいなことは、癲癇の子どもも混合収容され教育を命令されたことだ。
セガン1843年論文翻訳 第9章 承前
 以上のことから、たんに、概念と観念は知的作用とは明確に異なる結果であるだけでなく、概念の指導は観念のそれに先行すべきだ、ということが分かる。
 概念は受け身的作用ないしは知覚の作用であり、観念は能動的作用ないしは理解の作用であるということが、この第一の差異から第二の差異として引き出される。
 第3の差異は、概念は作用の基盤として感覚を持つ、その一方、観念は論理を持つことである。最後に、第4の差異は、感覚は、物質による管理を受けやすいことによって、ほとんどある点まで無理にでも概念を知覚させることができる、その一方で、論理を強制的に働かせることはできない。従って、概念は是非必要だが、観念はそうではない。
 つまり、私は観念は必ず必要だというのではないという。付け加えると、観念は確かに伝えられるというものではない。人は同胞に考えを呼び起こすことはできるが、その理解の範囲でしか呼び覚ませない。私としては、そして、そもそも議論の余地のあるこうした断定を否定するために傾けたいささかの努力からして、人間に、白痴であろうが無かろうが、観念を与えることは決してなかった。私は彼らの精神に、具象と具象、具象と抽象、抽象と抽象との関連を提示した。彼らの知性はこの関連を捉え、その結果を述べた。人、あるいは白痴は、考える、しかし自発的に考える。
○通所リハビリ 脚がきわめて不調。自転車漕ぎも10分が精一杯。従って気分的に明るくなく、小さなぶつかりをしてしまった。月曜日はコーヒー入れのリハビリを止めようと決意。仏の鬼軍曹にはその可能性があるとささやいておいた。人数が多い日に職員を一人欠いてその上接客。これはマネージメントとしてははなはだ問題ではないか。小さなぶつかりもその根本はここにあるのだけれど。