柏に出てお買い物。雨の降らぬうちに。

セガン研究話(27)
 医学博士ベロームは1843年のある時、ビセートルの「白痴学校」の視察をしている。そして、そこでセガンの実践姿を確認している。後年書いているベロームの回想では、白痴症の程度分けもされず、かつ癲癇も混合収容され、白痴が癲癇に寄り添って世話をしているように見えた、とある。ベロームは白痴症の程度によっては教育が可能だという学説を打ち立てているのだから、程度分けもされず、しかも症状のまったく異なる障害者を同一空間で同一方法で教育することにたいして強い違和感を持ったようだ。しかし、その一文の末尾にカッコ書きで、学校管理者の意向によるようだ、と付記されている。
 セガンはこの「学校管理者の意向」を受け入れがたかった。「癲癇の子どもは私のやり方では指導できない」と。セガンは当時新しい教育法としてイギリスやフランスなどで教育方法改革の一環として、意識ある人たちの間で取り組まれていた「相互教育法」を白痴教育に採り入れていた。だが、白痴と癲癇との相互教育は成立し得ない、というのがセガンの実践観であった。それで、セガンは、その教育方法を拒否する実力行使に出た。「一種のストライキ」という表現で、フランスの現代セガン研究者の間で語られている。これを、我が日本のセガン研究者は「欠勤」と表現している。事実は、白痴の子どもだけに教育を続けたのだが。
 ビセートルでの白痴教育の実相を見る限られた情報である。セガンがビセートルで教えた子どもの数は、60から100の間で語られてきているが、それはあり得ない数値だと考えるべきだ。むしろ、なぜそういう数値が出てきたのか、というところを考えていく必要があろう。ぼくはせいぜい多くて30人(以下)だと推測している。セガンと共に移籍させられた10人未満+セガンの上司になるヴォアザンがそれまで見ていた10数人というところだろう。
○グラサンに喪服系、角刈りもどき、歩く姿は蟹股スタイル。ちょっと丸めなお姿は、今を時めく○暴さんだろうか…。
ぼくの住んでいるところからみれば都会のデパートに買い物に出かけ、杖つき歩きに疲れたので、ちょっと片隅にあつらえられたお休み処で腰を下ろし息を整えていたら、上記のお方がそばに来た。
ぼくの右隣りが空席。左隣の人は、何を泡食ったのか、さっと立ち上がり、音をたてないようにという風に、去っていった。
つまり、両隣が空いたわけ。
上記のお方、ぼくの左肩をけっこう強くポンポンと叩いて、左隣の空席に腰を下ろした。見るとキャリングバッグを引きずってきたようだ。後ろをついて歩いていたちょっと下品なお身内衆と思わしき人はぼくの右隣り、そして僕の右肩をポンポン…。
要は、われ、どいたらんかい、わしら、隣り合わせで座りたいんじゃ、という無言の脅しをかけたようです。おふざけじゃあないよ、ここは橋下(ハシゲ)の差配地じゃござんせんよ。
「シマ内のモンじゃあるめえし、グラサン付けたままで、黙って人の肩をポンポン。ずいぶんなことやってくれンじゃねえかよ。」昔取った杵柄の巻き舌使いもチョイ入れました。声は大きくしなかったけど。
グラサンの奥からぎょろ目が見えましたが、場所柄をわきまえて、「えろおすんまへんでした。」と、ちょこんと席に腰を下ろし直し、もじもじして、すっと立ち去りました。右隣り、以下同文。
久しぶりに血が騒いだな。力で勝てっこないから初手から負けてんやけど。相手がよかったね、場所側わきまえた○暴さん風で。