終日在宅

○「爆弾」なんとかやらで、西の窓を覆っていた沖縄おもちゃ瓜の棚が倒れ、視界がぐっと広がった。・・・午後、弘美君が立て直してくれていた。
○10月23日24日、恒例の「秋を訪ねて」の旅、今年は修善寺。ひょっとしたら初めての訪問になるか。
○11月13日、花鳥風月さんの人力車で浅草遊歩 14時から16時。 18時からはオステルリー・ラベイで誕生日ディナー。
○舞衣さんより、教採合格の知らせ。おめでとう。
セガン1843年論文翻訳 第9章 完 第10章 命名について
 実践的な価値が無いようなら貧相な屁理屈でしかないこの区別から、私は以下の結論を引き出した。
1. 概念は感覚を介して得られる。
2. 観念は帰納と演繹によってもっぱら知的な活動を獲得する。
それで、私は、この二つの命題から、すべての子どもの教育、ましてや白痴の教育は、感覚によって知覚しうるすべての現象を理解する概念で始まるべきである、との結論を導いた。
 一度獲得されると、これらの概念は比較が思考を生み出すと同じほどの素材となるだろう。つまり、具体的な思考、そう言ってよければ。感性的な観念、言葉にこだわるのならば。しかし、個人的な、独自の観念は、噂、偏見、慣習とは違う。事物の本性から生ずる観念は、それぞれの事物についての個人的な知覚によって獲得されるのであり、他者の見解によって獲得されるものではない。
 概念を所有するようになると、子どもは概念間に存在しうる共通点を明らかにし、思考するだろう。しかし、子どもは記憶を用いて思考はしない。実のところ、どんな小さな奇跡さえ起こらない。しかし、子どもが人になじみのある抽象物にまだ心を傾けないことで、その知性は決して目を覚ますことはないと結論を下すのだろうか?もちろん、違う。彼の精神が正しく成長のままに任せられ、同じように、彼が物事を判断する知的な同様の方法によって、彼は抽象物を、生きている抽象物である人間を判断するだろう。論理の不変のの根本原理に支えられることが無ければ一歩も歩みたくないこの道に、粛々と信頼して、歩みだそう。

第10章 命名について
要旨―しかし、抽象的事象、観念が必要でないとしたら、どのようにして、観念が感性的にもたらされるのであろうか?
 書かれたりはっきり発音されたりする言葉によって。語は観念を表現する。どこで、白痴に、感覚によって知覚された概念を述べることを教えたように、語によって何か物や観念を命名するように指導する必要がある。この新しいこれからのやり方の中で、名詞の対象への適用が概念という最後の言葉であり、観念という最初の言葉である。名詞によって子どもは、私が言ったように、その認識をモノから思考へと、個々の場合に当てはめ、準備するのだ。ものの命名、すなわち、物事の分野、種類および個体に応じた呼称は、一連の長い作業―普通の方法ではさっと済まされてしまう作業―の最終的な目的である。それは、非凡な人間を生み出し、まったく天分に恵まれない本性に独自の価値を与えるこの作業の独創性を、子どもから永遠に取り上げてしまう危険を冒して、為すことである。