終日在宅

○脚が弱まらないように、スクワットを始めることにした。一日計50回。今までやったことが無い、避けてきたことゆえ、なかなか難しいのだなあ。でも、今日はやりきった。そのほか、つま先立ち、左脚高く上げなど。
セガン1843年論文翻訳 第10章承前 完
方法―読み方の章で私は、どのように名が物事と同一視されうるかを明らかにした。それでここではあまり繰り返さないことにする。書きことばと話しことばによる名を物事と結びつける必要がある。話ことばと書きことばによって、不可分のやり方で、絶えざる実践で、名と物事とを結びつける。要するに、書きことば名、あるいは話しことば名は、物事の観念を、物事が語を生ぜしめるように、呼び覚まさなければならない。―だが付け加える、物事とその名が分かるようになったら、概念の章で述べたように、特徴が、つまり、性質の、作用の、状況の、構成のありうる可能性が計られなければならない。
 物事とその特徴、人あるいは人と有益な接触をなしうる物事とのこうした関係は、もはや観念と呼ばれてしかるべきである。というのは、子どもは、非常にたくさんの関係性を理解するときにのみしか、物事の観念を持たないからである。しかし、直角三角形を見た子どもがそれをたやすく模写するとして、彼は観念を得たというだろうか?否、私は、こどもが線で挟まれた三角形と線との構成の関係、および基本幾何の他の定理との考えられる関係を知らない限り、子どもは概念しか得ていないと強く言う。
 それゆえ、先に概念を検討したように、具象観念を学習するために、我々は白痴に、既知から出発し未知へと到達するように気を配りながら、順々に、観念を提示する必要がある。その順は次の通り。
1. 対象とその特徴あるいは性質との関係について、すなわち形容詞について。
2. 存在の状態(1)について、あるいは、それ自身によるにせよ、他からの刺激によるにせよ、対象がしやすい行動について、すなわち動詞について。
3. 本来の意味での関係について、すなわち前置詞について。
 取り扱ったばかりの名詞をこれに付け加えて、白痴に議論の本質的な4部を教えることになる。それと同時に、それぞれの語の意味を探させ始めるのだ。従って、思考は、すでに述べたように、獲得した概念の、精神による関連づけを生ずることになろう。
 もし私に、上記には素材、感性的な対象、感性的な観念しかみられないと反論しようとも、私はきっぱりと答えよう、白痴に抽象を考えさせるための方策は何も知らない、と。非常に幸せな他の人たちは、彼らの生徒に、すべてを推論させることを教えるし、もっと他のことも教える。私は、自身を、私の願いと私の望みとを、私の仲間が彼ら自身で分かることしか話すようになることにとどめている。多数の人々が有限や無限について論じることなく、十分幸せに生き死ぬ。それを気の毒だとは思わない。考えることをせず覚える人々に対する、その才能を記憶に向ける人々に対する皮肉あるいは憐れみを、持ち続けよう。
(1)文法家のひねった言い回し