終日翻訳作業

○訳文入力中、電源が落ちた。瞬時であろうとも停電があるという通告はあったのだろうか。幸い、入力データに損傷はなかったからいいようなものだけど。
セガン1843年論文翻訳 第14章 記憶力について 完
第14章 記憶力について
要旨―記憶力は能力なのかそれとも素質なのか、記憶は単独なのか複合なのか、知的能力の補遺として分類されるのか、を突き止めたいとは思わない。つまり、私には事実にしか基盤を置かない理論が重要なのだ。私にとって重要なのは、記憶力、すなわち、この驚くべき働きが、どのようにして、現在のただなかに過去を呼び起こすのか、時間や年月の意識を与えるのか、個と種族のすべての活動をそれぞれと取り結ぶのかを、指し示すことである。話を元に戻すと、記憶力は、すなわちあらゆるものの仲介者は、どのようにして、あらゆるものの動作主となるのか。記憶力はどのようにして、一連の能力に留まらずに、能力と入れ替わる、言ってよければ、能力を吸収するのか。また、ただ知識の生産を退化させるだけでなく、個人の自発性を消すことで、記憶力がその根本のところで干からびさせた道徳的な力に通俗な刻印を押してしまうのか。
 現代の世代に向けられてもよい非常に強い、この告発の行為を数語でまとめよう(1)。子どもが片言喋りを止めるようになると、彼は、記憶力によって、その精神に、非常に抽象的なことや非常に理解しがたいことを、以下に例示するような様々な学習と結びつけられてしまう。すなわち、お伽噺、教理問答集、古代ギリシャローマ神話そして文法書 。こうして、子ども時代は、考えることができるより先に覚えることを強いられ、価値を見分けることができるより前に、ありきたりの語句、既成の観念を得てしまっている。子どもたちは、赤と紫とを識別できるようになる前に、抽象的なことや道徳を暗唱する。子どもたちは動物に通じる大雑把な概念を得るより前に、ギリシャ語とラテン語を書く。おまけに、悪しき同類、つまり卑俗によって互いにまったく似てしまう、平凡な知的水準を脱しえないことに驚かれるのだ(2)。
 じつは、記憶力は、それぞれの能力に従属させられてしまう一つの素質である。数字の記憶力を持っている人が抽象の記憶力はまったく持っていない、場所を覚えている人がその語や名前を思い出せない、音楽は覚える人が観念を記憶しない、など。白痴はこうした後者のカテゴリーの者たちの間で見いだされる。聴覚の章でその理由と証拠とを述べておいた。
方法―白痴の記憶力を養うために、まず、感覚的にとらえられる現象についてそれを訓練する。たとえば、少し離れたところに置かれたもの一つを子どもに取ってくるように要求する。子どもはそれに応える。今度は二つ、続いて三つ、四つ、さらにもっと多くを一緒に取ってくるように要求する。子どもはいつも、たくさんあるものの中から選ばなければならない。次に、ほかの部屋に置かれたものに対して同様の命令がなされる。さらに、彼が命じられた時から次第に時間をずらして物を取ってくるようにする、5分後、30分後、1日後、などというように。食事の前にはいつも手を洗うこと、とか、散歩や就寝の時間を覚えて置くこと、とか、個人の生活行動について命令する。昼食時に、朝したことを言うように命じたり、毎日、前日にしたことを言うように命じたりする。それは、何よりも、記憶についての知的振り返りを個人生活の範囲で為させるためである。これがうまくいったら、非我で学習させる。具体から始め抽象で終わるように。できれば、いつも、概念と観念に対してと同じ進め方で。しかし、繰り返さねばならないが、子どもには、彼が理解したことしか思い出させてはならない。子どもが限られたことしか思い出せないとしたら、彼はオウムでしかないのだ。
(1) このことに関して言えば、現代の学校 は親の行いを引き継いでいるに過ぎない。
(2) どの人間も彼自身にしか通じないらしさが必要だということを言っているのではない。だが、その性格が普通以上に育った人々が、究極にまで、あるいは死か狂気かまで、冷酷に抑圧されるべきではない。