粋生倶楽部増尾通所リハビリ

○朝のゴミ出しの歩みは少し重さが取れてきていると感じたが…。
○通所リハビリで、仏の鬼軍曹さんが、つま先立ちはよくなってるね、かかと立ちが課題だな、まだまだ段階は先にあるからね、ぼちぼちやっていきましょう、と先の見通しを語ってくださった。無理しないで頑張りますね。
○通所仲間のお一人が「ここへ来るとみんな明るいからいいわよねー」とおっしゃった。本当にそう思う。この明るさがある限り、それぞれが課題に熱心に取り組むことができるのだ。「人嫌い」「コミ障」と言われ続けて、自覚もしてきたぼくが、特に大はしゃぎをする。軌道を外れないはしゃぎならかまいませんよね。
○翻訳作業について、所長さんから励ましをいただく。うれしいです、理解者がいるということは。
セガン1843年論文 第16章 道徳性 完
第16章 道徳性
要旨―筋肉組織と神経組織の教育の実証的基礎を確立するために、感覚と知的能力の教育をじっくりと考えなければならなかった。それと同じほどに、概念と観念の区別にこだわらなければならなかったし、逆に、道徳理法の説明をまったく慎んだ。道徳性は検討しない。つまり、我々に啓示されることと同じく、道徳性は存在するが故に存在するのである。
 それで、当然のことながら、私は生徒たちを訓戒しない。道徳性が、彼らと私との、彼らの仲間との関係を取り決めているに違いないのだから。だが私は、もっぱら人間性の見地からだったら、道徳観を論ずることができる。宗教教育は聖職者に専らとされるものである(1)。教師 は、私がそうしてきたと同様、彼の助手に宗教的道徳的指導を委ねることができる。教師は、道徳性をその言葉の持つ人間性や世俗性の意味において、指導しなければならない。この意味で、道徳性は人とその人自身、その仲間たちとの関係を包括的にとらえるものである。
(1)教師は、ある場合には、ビセートルで私に起こっているように、天分に恵まれない子どものために、宗教教育に、より感性的でより知的な性格を付与するために、口出しすることができる。たとえば、私は、通例の感謝の歌あるいは行いの代わりに、次の二つの祈りをささげた。「神よ、我らが得られる食事に祝福あれ、哀れな者たちに我らのように食べ物にパンを得させたまえ。」「神よ、我らが、我らを治し、我らを社会に有用とするためにしている営みに祝福あれ。」この二つの非常に簡単な決まり文句は施設付き司祭に受け入れられ、うれしいことに、他のどのような宗教上の決まり文句に道徳感情も実践も示さなかった、たくさんの子どもによって理解されていることを、私は知った。