とてもいい天気.部屋に差し込む陽光を浴びながらうんうんうなる…

○資源ゴミ出し。瓶類がけっこうたまっていたので一往復だけで済まないだろうと案じたが、他の缶、ペットボトルとを左手に併せ持ち、用心して右手杖つきで、要件終了。
○階段を使って左脚訓練。午前中60回(1分を意識)×2。けっこうきつい。午後も同様。がんばれ!
○フランス文化に実際に触れる中で強く感じていた日本の民主主義観は日本独自なものでしかない、フランスでは、例えば「権利」を教える時に必ず「義務」を教えている、それが「市民的資質」としてしっかり理論化され実践されているということをちゃんと踏まえて、セガンを読まなければならないはずだ。それがフランス革命が生んだ、そしてその後の様々な革命の中で確かめられ、強化されてきた近代的民主主義なのだから。
○かねてから、「セガンの教育論の(独自解釈を加えた)すばらしさ」を清水寛先生から吹き込まれて辟易していた中で異例というか、もう悔しくてたまらない、という口調で「セガンともあろう人が、服従とか権威を尊重し、強調するのですよ。」と聞かされてきた当の「第17章 権威と服従」に突入。久しぶりに中野善達訳文登場!しばらく息を潜めていたが(触れなかったが毎度毎度誤訳に悩まされてはいたのですぞ)、今回ばかりは見逃せない。なぜならば、訳文を何度読んでも意味がつかめない、では原文は?と覗いてみると、確かに呻吟するような文章ではあるが、中野訳文はセガンの本意を摑み取っていないからだ。
○章冒頭の一文を例に。中野訳文「命じることを学ぶためには、まず、従わなければならない。」 分かるような、しかししっくり来ない。原文には「まず」に相当する語句はない。従って、中野は原文解釈を表記したわけだが、さて.解釈抜きで文法通りに訳出するとどうだ?「学ぶためには指図することに従わなければならない。」ね、ね、これ、すっきりしません?「指図すること」があいまいであったらその指図をどう理解し、どう行動すればいいか、学習者は困る。教育・指導は、内容(方法も)を「指図すること」が揺るぎ無いもの、すなわち道をしっかり指し示しているという「権威」に裏付けられている必要がある。
 清水先生が眉をひそめる語句「権威」「服従」は、抑圧の権化のみで理解されているわけ。セガンは「抑圧」を徹底的に排除する論説を展開しているから(これまでの訳出分で十分に分かること)、「権威」「服従」には「抑圧」が含まれていないと理解しなければならない。
 昨今の「自由な学び」論そのままで行けば「指図」そのものが許せないのでしょうけれどね。
セガンが1839年の1年間その教育をゆだねられたという女児、フェリシテ・Xに関する個所。中野訳文は、一瞬、はぁ?と目を疑ってしまう表現。「彼女は院長の権威を理解せず、まったく無言だったが、やがて、自分の役割が私とともに変わってきていることを理解し始めた。」
 つべこべ言わず、ぼくの訳文。「この上なく白痴症と唖の彼女は命令を下す役割が私と入れ替わった結果を理解した。」「院長」にあらず「この上なく」…。またこんな調子だ。「辞書は調べるものにあらず、読むものなり」 中野大先生に献辞しよう。
セガン1843年論文翻訳 第17章 権威と服従
第17章 服従―権威
要旨―学ぶためには指図することに従わなければならない。人間にとってまさしくそうであるが、まして子どもにとってはをや。親がいない場合には、権威は先生のなすことであり、服従は初学びの者のなすことである。前者は後者の相関語である。服従が生まれる精神的影響力が無い先生はその職務を放棄すべきである。なぜなら、自分より生徒たちが教師となるような自分の授業につねに見舞われるだろうから。
 白痴たちは指図する能力も従う能力もほとんど持っていない。私は、他人の気持ちを自分の方に向けさせるために、うまく計算した上で、あれこれの悪戯の源を見せびらかすのを見たことがある。その一方で、彼らが従うためには知性を必要としない命令から逃れるために10回以上のごまかしをする。しかし、私はまた、夫に従順で、理性に満ち溢れてはいるが、権威という道徳観を持っていない人によって常軌を逸するほどまで従わされる人を知っている。フェリシ・X...は13歳の少女だが、1839年に私の手に委ねられた。その時まで、彼女の家族全員、とりわけ母親は彼女の命令のままであった。この上なく白痴症と唖の彼女は命令を下す役割が私と入れ替わったことを理解した。そして役割は変わった。1年余の後、両親が彼女と再会した時、彼女は、その気難しさによって、母親を苦しませ始めた。同様に、反抗が私にまで及んだ。私は母親を引き下がらせた。母親は身を隠し、気づかれることなく、わが子の完全なる服従ぶりを見ることができた。これが、このことについての、開始され継続中の教育である。
 この事例は、白痴そして一般的にすべての子どもは成人より強く、従う従わないにかかわらず、権威の階段の感情を有しているのだということを、私に気づかせてくれている。それ故に分かるのだが、大人は、精神的にも身体的にも、彼らの前では揺るぎもしない権威との、絶望的で無力な戦いに挑むのに、ほとんどの子どもは、また、白痴は決して、そういった戦いには身を晒しはしない。子どもたちは、彼らの制御する意向に対して遠慮なく放縦であることが許されるというような、しぶりをすることを知っている。