いい天気。今日は3食孤食だ、そうだ、街に出よう!

○階段訓練100回にグレードアップ。昨日ほどには疲労感はない。午前中×2 夕刻×2
○昼食と夕食のおかずその他入手のため、新柏東武ストアへ。結構、早脚〔意識の問題〕で歩けるし、時には右手杖が邪魔になることも。途中休憩の欲望は出ませんでした。この調子でいってくれよ。
○終活のための研究的総括その2
 ぼくが教室での学びが好きでないのには理由があった。それは閉ざされた空間でのコミュニケーションを強要されることである。だから、教室空間の外に出て学ぶことや一人こもって学ぶことに拒否感があるわけではない。
 要は、今はやりで言う「コミ障」なのだが、後年の詳細な聴覚検査によって分かったことだが、左耳は母音を聞き分ける能力が極めて弱く、子音はやや弱いという「生得的難聴」という障害を抱えていることが、大きな原因ではあった。
 まあ、そんなことはどうでもいいこと。教室で学ぶのが苦痛なら、外に出よう!
 大学1年の時、多少は抑えがたい学問的好奇心に駆られ〔東大の5月祭参観に刺激され〕、友人二人と、「へき地教育研究」を手掛け始めた。長期の夏休みを利用して、山形、秋田、青森、岩手の山間僻地校(当時で4級から2級の小学校〕を訪問し、教師や保護者・地域の人たちからの聞き取り、子どもたちとの宿泊交流などを進めた。これは、ぼくひとりの活動も含めれば、4年生まで続いた。大学で学習相談に乗っていただいた教授の資金援助も得て「へき地教育研究」という小冊子を発行した。当時の文部省や野間教育研究所を訪問して資料を収集した。出版社を訪問して無償で少年・少女向け雑誌100冊を寄付していただいた(訪問先には書店はないゆえの手土産)…などなど、今日に続く研究の方法論的なことを、試行錯誤で、探り実践した。
 誰しもが、川口はへき地教育研究を本格的な学問対象とすると、思ってくれていたようだ。だが、ぼくには、もう一つ、強いあこがれがあった…。
○終活のための研究的総括その3 (その前座編)
 人生総括だったら、例えば浪人時代、池袋西口の繁華街をうろついていた時に、空手をやっているという男子に、お前どこの大学生だ?いや、大学行ってません、着てるの学ランだろうが、いえこれは高校時代の学生服で…なんてのんきな対応をしているうちに、その空手男、チョイ金貸せや、とカツアゲ男に変貌し、ポケットに入れていた硬貨をみんな―10円玉10枚ほどだけど(都電がどこまで乗っても15円の時代やさかい、けっこう高額でっせ)、持ってかれてしまった、その日の飯代遊興費パーというアホに類することは、モオエエ、うるさい!と言われるほどに、ネタを持っているけれど…・・(前座話終)
 後記:カツアゲ男、なかなか律儀でしたぞ。「金貸せ」と恐喝したのですから、当然、「返す」という言葉が別れ際に出されるわけで。「そこの辻右に曲がってすぐの角を右に曲がると、バー**があるけどな、そこのなおみって女おれのレコでよ、なおみに、お前が顔を出したら代わりに金を返すように言っとくからな」と言って、お別れくださったのでした。・・・しかしまあ、こんなくだらないことを、もう50年以上もたっているのに、情景までしっかり覚えているのだなあ。
○翻訳難物
la perte de l'appétit, les digestion toublées, le sommeil interompu, les accidens nerveux les plua graves, et le germe des maladies organiques qui moissonnent l'homme dans toute la sève de la vililité
*主語は文頭にはなく、quiのあとのl'hommeと定め、「人」にあらず「男」と定めてみる。なぜなら、文末に、「男らしさ」とあるからだ。「男は食欲不振・・・・・で男らしさを奪われる」 単純明快じゃっん。でもよう、何で「男」しか登場しないんだ、「女」だって食欲不振になりゃ、精気を失うだろうに。…・ン?待てよ、 vililitéは確かに「男らしさ」という語義ではあるが、l'hommeに引きずられて男性性を指すことばを使ったが、現代風に、l'hommeを「人間」と訳すれば語義に引きずられて「人間らしさ」と理解すべきではないのか?
 決着! こういうところに、もろ、古いフランス語のシャワーを浴びたのだワイ。
セガン1843年論文翻訳 第17章 権威と服従 承前
 ただし、権威を教育の手段としてのみみなすのは間違っていよう。この意味で、教育が多少とも進んだことに応じて、随意に、ネジを強める、あるいは、緩めることができよう。白痴である否にかかわらず、子どもに及ぼされる権威の方法は、たんに精神に限らず身体にも及ぶ。精神に関しては、命令の義務に応えることのできない多くの人が見られるが、そのことは彼らが服従していないということである。これは社会全体に悪く跳ね返ってくる。身体に関しては、その問題性は比較的個人的結果にとどまると思うが、それでもなお深刻である。分かりにくい命令を受けた子ども、あるいは、これが普通なのだが、投げやりな命令と厳しすぎる命令を交互に受けた子ども、あるいは、よく見られることだが、父親の厳格さと母親の寛容さとの間に挟まれた子どもは、命令に、気まぐれと道徳規範が示されていないことしか感じないで終わってしまう。その子にとっては義務の神聖さはゆがんでしまっている。つまり、次のようなことをしかねないのだ。彼は、悪いことだと思ったことが、後にどうでもいいことだとみなすようになり、非常に気の変わりやすい権威に逆らうことを恐れない。このような戦いのなかで、彼は、そのよろしくない本能的な感情の表出を一時的にせよ妨げられることに対して、イライラする。彼は、規則に違反したり、規則から逃れることを繰り返す。彼は狡猾になり、短気になり、乱暴になり、自身や他者に危害を加えるようになる。彼の荒々しさは、乳児期により必要とする働きに影響を与える。人は、食欲喪失、消化不良、不眠症、非常に重い神経発作、器官病源に見舞われ、その人としてのあらゆる活力を奪われてしまう。そのような人は偶然の産物なのではなく、しばしばにおいて、父親あるいは母親の甘やかしの産物なのである。