粋生倶楽部増尾通所リハビリ。目がやばくなってきてるかも

○通所リハビリ。今日はブルマンを淹れて差し上げた。やはり癖がありませんね。帰宅後、和のいじめの記録をメール添付でお知らせした。
○文字が薄く見える。全体ではなく。いよいよ「1年後」が襲ってきたか。もう少し待ってください。
○キコちゃんより、ラインメール。東京都教員採用試験正式合格との連絡。おめでとう!ラインメールの返事の出し方わからず、おたおた。
○終活のための研究的総括その4 (その前篇)
 夢と口だけは大きく実践が伴わなければ、若芽さえ出ない。それが長く続くぼくの学生時代。70年安保、そして大学闘争、わが身に直接かかわることで言えば「筑波大闘争」。
 東京教育大学「移転」問題から始まった「筑波大闘争」は、最後には、「東京教育大学を廃学し、筑波大学を設置する」という悲劇的結末を迎えたのだけれど、おおよそ、ぼくが東京教育大学に入学した年から埼玉大学に着任するまでの、13年、ぼくの日常の中にあったことだ。喧々諤々の議論、投石、大学当局の非道、機動隊導入…。以下、その前半生活。
 だが、ぼくは、その渦中にあったという表現はできない。巷を徘徊し、不良一歩手前の中学生たちと「うんこ座り」の中に入り込み〔ほとんどコミュニケーションが成立していないんだ、彼らの会話は、ということをこういう体験から知ることになるのも皮肉なものだが〕、遊技場に寝泊まりしてやーさん見習いたちの行動をしっかりと観察し〔誘われても「仲間」に入る度胸はなかった〕、こうした生活の終期には、ドスを持って「ケンカ」に駆けつけようと気がはやる少年の前に立ちはだかって、諫める、という度胸もつくようになっていた。
 気が向くと大学に赴き、「移転反対!」のシュプレヒコールを上げた。生まれて初めて学生大会に出席しもした。ただし、座った席の周辺は「構造改革派」グループで、「なんだこいつは?」という目で見られたり、盛んに投票オルグをされたりしたが、ぼくは断固、彼らの言う「ミンコロ」の決議案に賛成票。「この裏切り者!」と詰め寄られたが、何のことかわからないほどそっちは音痴。さすがコウカイ派のリーダー、いわく、「川口はどうしようもないアホだから、ほっておけ!」。やくざ世界にはドスを利かす声を使えても、学生運動の人たちには、へらへら戦術しか通用しなかったな。
 学部生活7年間の生活ぶりはこんなありさまで、日常学習は、ドイツ語文献読みだけというありさまだったから、学問的な力など、つくはずもなかった。(この項終)
○無理をせず、休み休み、ゆっくり翻訳。
セガン1843年論文翻訳 第17章 承前
 とりわけ、命令をしなければならない人の精神的無力が、白痴たちに、悪い果実をもたらす。「かわいそうな子たち!もうとても不幸なのだ!機嫌を損なっちゃだめだ。」 そう、人は言う。恩着せがましい態度での弱気から、いつかは、彼らを動物の最後の仲間に落としてしまう 。15分間裸のままにしておかれたり、あるいは、10分間不安のままにさせられたりすることよりもむしろ、彼らは、他者の手を煩わせることを覚えてしまい、食事や着衣のために自身の手を使わなくなる。いつかは、もし、彼らが口の中にパンの耳の代わりにパンの身を入れられたら、彼らは、不愉快な叫び声を挙げるようになる。ああ!それで、あなた方は、この感じやすい人たちがいつもの叫び声を繰り返すのを聞くだろう。「仕方がないでしょ。白痴なんだから!」 まさに何かを要求する時なのではないか?…生まれた時に嫌な障害を持たせてしまった者に、あるいは、非常に残念な発達を負わせてしまった者に。私は次のことを言う必要を感じない。野蛮という形容句は、不完全な被造物を、一時的な道徳の強制ではなく、完全にする人々のお気に入りであるのではなく、仮面を取ってしまわなければならない偽りの感情のもとに隠されてしまう、被造物の無能性を覆い隠す人々に完全に負わせられるのである。