午前中外出、きわめて左脚の調子が悪い、金土の旅に支障が出ませんように

○私学共済関係の書類郵送と当座の生活資金を下ろすために郵便局へ。郵便業務の窓口のいつものマダムがいつもの笑顔で応対してくださった。「いつも応援をしてくださって本当にありがとうございます。」とお礼を申し上げたら、さらに笑顔を豊かにしてくださった。今日も頑張ろうという気になりますね。
セガン1843年論文翻訳 第18章 自由―意思
第18章 自由―意思

要旨―しかし、受け身ではない教育の目的は、自由である。そして自由であるための基本的な条件は意欲である。自由と意思、この二つの言葉は、前述の二つの言葉、服従と権威がしっかり理解されたことが分かってこそ口に出されることができる。ひっきりなしに、二つの言葉は切り離されて使わるれが、切り離されれば意味をなさない。つまり、運動、身振り、話すこと、概念、観念、これらすべてはこれら二つの言葉に従属し、最終的には意志に従属するのである。
 ところが、このことばはどこにも見いだせない、もしあるとしても、人間精神の目録の人目につかない片隅にしか見つけ出せない。前世紀の形而上学者たちは、「精神は存在しない」ことを精神科学によって、すなわち、「抽象は妄想である」ということを抽象的観念によって、真剣に証明することに非常に忙殺された。決闘好きが自身を励ます臆病風を否定するように、前世紀の形而上学者たちは、彼らのペン先を動かしている執念深く一徹な意思まで否定したのだ。
 現代の大部分の人たちがこの学派で形成されており、さらに動かしがたい優位性によって彼らがわが父親たち と異なるとしても、彼らは意志―人格を構成する美徳―だけによってしか輝かない。では、教育に信を置かないのに、なぜ、個人の意思が現代の生活習慣のなかにところを得るのだろうか。なぜ、ギリシャ語とラテン語(の学習を)を前にした分別のつく年頃の前の子ども総てが、その子の分限以上に育てられるのだろうか。なぜ、10年間、共通のやり方で、共通の規則のもとで、共通の目的を追いかけていた生徒たちが、天分という崇高な不平等に、あるいは、もっぱら道徳的意思の大胆な高みに、到達するのだろうか。現代の偉人を数え上げよ。教育ある人々を尋ねよ。要は、その教育あるのは成果か?それともたんに準備しただけか?彼らにその人格と群衆から抜きんでた意志の秘密を訊ねよ!彼らは答えるだろう。彼らが今あることは自らの意思にあるはずだ、と。そしてその意思を疲労困憊させるために積み重ねられた大きな出来事そのものへと立ち向かう意思にあるはずだ、と。もし、将軍ボナパルトテルミドールの反動 によってその将来を束縛されなかったら、間違いなく彼は、オランジェリーの窓から500連隊を通させなかったはずである。
○上記のナポレオン関係の史実が詳細不明。何を手掛かりに調査しようか。オランジェリーとあるが、中野訳書では「オランジェリー美術館」とされている。ただし、同美術館はナポレオン3世によって1852年に創設されたものであるので、中野説は大インチキである。
○終活のための研究的総括その6 (う゛ぁがぼん漂流 前編)
 ぼくが研究者としての心境と行動とをエッセイ風にして日記に綴り始めた表題が「う゛ぁがぼん漂流記」。「井上雄彦バガボンドからパクったんスか?」と学生から問われたことがあるが、確かに井上作品は1998年から発表されているから、そう言われても仕方がない。だが、ぼくはその漫画の存在すら知らなかった現代文化呆け人間。ぼくの使用する語の原義はvagabond、フランス語読み。「放浪者」それと「気まぐれな」という意味もある。高校時代の合唱部で指揮者を務めた時に好んで選んだ作品が『流浪の民』であったといえば分かるように、「放浪」的な生き方(哲学?)が気性に合っているのだろう。
 「生活指導」の世界で自己完結する情熱も意欲も喪失し、新しい課題を自己開拓する力量もないぼくに、手を差しのばして下さった志摩陽伍先生がいた。ぼくの生活綴方研究の初期の頃からの厳しい批判者であり援助者である。「アメリカなど英語圏でWhole Languageという新しい教育運動がある。日本の生活綴方と手を携えることの可能性がある。その日本の窓口になって欲しい。」と。それとは別のルートで、ぼくの大学院時代の所属研究室の一つの、しかし大きな研究動向として、Whole Language研究が手がけられていることを知った。こちらは単元学習からのアプローチ。旧の住屋に対抗すると受け止められようが、我が道を行くしかない。
 手始めに、埼玉大学勤務終期に、大学院生や研究仲間数人とWhole Languageの立場からなした生活綴方研究書の翻訳研究会を立ち上げた。成果は『書くことによる教育の創造』(大空社)との表題のもとで翻訳出版をした。和歌山大学に移ってからはこの分野の入門書の翻訳出版をした(『新しい教育の挑戦』大空社)。訳文を含めてあまり評判はよくない。未熟さを露わにした作業だったからだ。
 そして、人的研究的交流が必要だという志摩先生のご提案で、巨大な大陸アメリカ合衆国にわたり、関係学会に出席し報告をしたり、関係者のサークル研究会に出席したり、あるいは教師教育のクラスで臨時に授業を受け持ったりと、それなりの活動はした。しかし、「英語の天才的落ちこぼれ」と揶揄される者が歩むことができる道かどうか、不安ばかりが先にあったことは間違いない。
 アメリカに住む日本人言語学者とWhole Language実践家に手を引かれ、合衆国の各地を渡り歩いたが、頭の中に住み着いたどす黒い霞は、ついぞ、晴れる思いをすることはなかった。そして、2001年9月11日、そう、例の日と、西海岸ではあったが直面した。やっとの思いをして帰国することができたが、それ以来、海を渡って東に進むことはしてない。ただし、家族関係と関わるジャマイカを訪問する時は、否が応でも、アメリカ入出国をせざるを得ないが。
 極端なまでの優勝劣敗社会に生きることに呻吟するドロップアウト層の居住区、また、ネイティヴアメリカンの文化、その居住区のまさに貧困と退廃の生活に包まれた子どもたちの実相、そしてその中で、人間的な生活を豊かに保障したいと教育実践と教育研究とに打ち込む多くの教師たち。それらとの濃密なふれあいは、確かに、ぼくの中に新しい何かを産み出す予感をえさせたが、その方向性をしっかりと見定めることはできなかった。