今日も青空が広がりそうだ 粋生倶楽部増尾通所

○昨日、粋生倶楽部増尾の所長さんからメールがあり、明日からの旅の事前ケアのために今日、通所しないかというありがたいお声掛かりをいただいていた。今朝、電話で改めてお願いし、午前中のコマでリハビリをしていただくことになった。左脚のしびれと痛さを緩和する療法、全身マッサージ、あたたか姫、それと椅子に座って棒体操。いつものごとくコーヒー淹れもさせていただいた。喜んでいただいたようです。
 本当にありがとうございました。
○午後はのんびりと体を休めつつ翻訳、旅の準備。
セガン1843年論文翻訳 第19章 愛情のこもった感情 完
第19章 愛情のこもった感情
 白痴は必然的に愛情深くはない。が、教育によって愛情深くなることができる。愛情のこもった感情を発達させるために現在用いている方法は、適用する生徒にそれぞれに応じて変わっている。だから、私の心の中でいつでもこの方法を考えている、と言う時が来れば、私は、母親に理解されるだろうに 。事実、私は、生徒たちを絶対的な権威を持って世話をしながら、彼らと愛情のこもった親和性のある関係を築き上げてきている。今もなお、つまり、この一文を書いている時にも、私の周りには、一年間いつも気難しく怒りっぽい状態にあったのが、今ではとても生気のある愛情を私に示してくれる子どもがいる 。子どもたちは従順で、私の不在を残念がり、私が戻ると小躍りして喜ぶ。子どもたちは私を陽気に笑わせてくれるし、私の叱責に泣く。
○終活のための研究的総括その6 (う゛ぁがぼん漂流 後編)
 パリの街の外は人様のお力添えをいただいた。長期研修の届け出テーマは「フレネ教育研究」。国際的なフレネ教育研究団体の研究会がフランス西海岸地方のレンヌで開催された。それへの参加によって、「フレネ学校」以外のフレネ教育関係者と知己を得、同年9月以降、マルセイユ市の「ペダゴジー・フレネ小学校」、その近郊の小さな小学校内のフレネ教育を実践している低学年クラス、パリ13区内公立小学校内高学年クラス、そしてニース近郊のフレネ学校、それぞれ2週間をワン・スパンとした参観を繰り返した。また、いろんな立場からフレネ教育を進めている教師の月例研究会に参加させてもらい、フレネ教育の一つの看板「学校間通信」について、情報を得た。
おおよそ半年かけたこれらの乱雑な「学びの成果」は、「市民的資質」形成を主題とした小論にまとめ、帰国後、勤務校に提出して、ぼくの海外研修の果実の一つとした。
 あと一つは、パリ独歩から「偶然見出した」、いわゆる「パリ・コミューン」(1871年)関係史料の収集と学習・研究も、勤務校に研修報告をした事柄である。こちらは事前にテーマ提出をしていないから、まさに自主研修。いや〜、制約を受けない研究というのは、本当に面白い。どんどんと問題関心を自在に広げ、深めることができるし、息が続く。フレネ教育の方は帰国後ほんの少し学習を進めただけだが、パリ・コミューンの方は、その中間発表的なことを、近著にまとめたし、今もなお考え事の中に住み着いている。
 1年間のフランス・パリ・う゛ぁがぼん漂流は、ぼくを、何よりもまず、人間として「再生」してくれたし、新しい「課題」を探求し続けるという意欲をわき起こしてくれた。しかし、現実の日本の、かつて関係した研究組織には本気になって復帰する決意だけは、どうしてもできなかった。
○去年の今日、FBに書いたこと。
マルクス主義科学的社会主義)世界観で生きる者にとって、「空想から科学へ」という命題に引きずられ、「サン・シモン主義」や「フーリエ主義」は「マルクス主義より低位にある世界観」、という観念を意識内に強く持っている。それはそれでかまわない意識だ。
 が、対象を見る(分析)する際にもその観念が働いてしまう。しかも、対象が「空想」段階をどう乗り越えて「科学」の立場に寄り添うようになったか、という目線を添える。
 それ、本当に対象を正しく見ることになるの?という疑問を提出しようものなら、「科学」主義者から「袋だたき」に遭うことがしばしば。「科学」主義者曰く、「歴史的制約という弱点を抱えながらも、現代に通底する教育の可能性を正しく捉えることこそが大切だ。」と。未だによく分からない命題(表現)なのだが。1960年代70年代に展開された論題。そしてこの論題を今もなお後生大事に抱えて斯界を支配しておられるなあ。
 鉄道を敷設したのも、近代的な銀行を創設したのも、スエズ運河を開削したのも「空想」にしか過ぎないものだったのだ、というのだろうか。ぼくが専門とする教育の側面で言えば、「教育は不能だ」「社会参加などとんでもない」という阻害・疎外世界におかれ続けてきた知的障害者の教育可能性を開き、社会参加が可能であることを理論的実践的に世界で最初に明示し、実践体系を構築したのは「この派の人々(=サン・シモン主義者)だった」(エドゥアール・セガン)なのだけれどなあ。
 ぶつぶつ・・」