雨模様の天気故、終日在室にてあれこれ

○6時半起床するも、雨。今日は燃えるごみを出す日だが、あまりゴミもないゆえ、見送る。室内体操の準備をして、一日が始まる。朝食の後、「終活のための研究的総括」執筆。その後室内体操をあれこれ1時間ほど。
○ペダル踏み10分、つま先立ち2分、両膝屈伸(尻を下まで下す)25回(ここで息切れ)、廊下歩き(10往復 ほんのちょっぴりですねぇ、歩行訓練にもならない)、膝上げ(20回)、足首ぐるぐる(随分と柔軟に回るようになりました)・・・。
セガン1843年論文翻訳 第22章 承前 完
さらに、私は教育施設さらには救済院におけるたいていが非常にぞんざいな点を指摘するだろう。健康に良い水が豊かにあるべきだと言いたい。それがいたるところで配給されることが大切であり、暖かいのやら冷たいのやらを、絶えず手に入れることができるのが大切である。冷水浴は他の衛生のためのものの中でも、よく効く作因である 。水流の眺めは常に新しくされるので、建物の前部に水の流れを通すことが可能であるように望む。基礎がしっかりしていて、おしゃれで、気持ち良い色が塗られている鉄柵が、あらゆる危険から子どもを守るだろう。
 200あるいは300人の白痴を教育する ためには(1)、ほどほどの大きさの区画部屋が一つで十分であろう。それは次のように施設整備がされる。1.暖房と換気とが自在に操作できる共同寝室が1室。空気と明かりとをけっして遮らない、上部に取り付けられた可動式の間仕切りで分割できるようになる。2.浴室が一室か二室。3.床はどこでもキルト生地であるような体操室が一室。落下・転倒に伴う危険があるからだ。4.聖歌隊の両横に設置されている背の高い椅子あるいは柱廊の形をした屋根付きの回廊席のようなもの。そこからはどの教室にも行くことができる。5.上記した食堂2室。6.共同洗濯場1室。少なくとも日に一度は、子どもが髪を櫛でといで貰ったり、身体を洗って貰ったり、衣服を洗濯して貰ったりする。7.一美術室。その壁は子どもたちのために心に強く刻み込まれるような絵で覆われることだろう。その部屋で、子どもたちは絵や版画、塗り絵で一杯の紙ばさみを見いだすだろう。また、小立像が適切に置かれるだろう。もちろん、子どもたちの注意を惹くにふさわしい他のものも。8.一身体模倣室。そこで、すべての身振りが一人ひとりに指導され、次第次第に集団に指導される。9.模倣、配置および組み立てのために一室。そこで子どもは地図、形状および配置の概念が与えられる、10.一初歩読本室。11.いわゆる読み方室一室。12.黒掲示板に線を引く模倣のための一室。13.一書き方室。14.一話し方室。そこでは様々な話し方体操が行われる。15.ノコギリをひかせたり、かんなをかけさせたりなどのための指物細工室一室。16.非常に興奮した無意識で神経的な動作の子どもの注意をひくために、必要に応じて暗くなる、沈黙と不動のための一室。これらの配置に加えて、樹木で囲われ動き回るのに快適な幅のある散歩道 のついた広い中庭と垣根付きのブドウ畑。中央には、いくつもの共同の小さな庭、一人ひとりの子ども用。スコップ、ツルハシ、一輪手押し車を使って掘り返す空き地が一面。さらには小さな飼育小屋一つ。そこでは、子どもがヤギ、ウサギ、ハト、メンドリに餌を与える喜びを覚えるだろう。この最後の策は絶対欠くことがあってはならない。
 今日、家族の不名誉と絶望の源になっているたくさんの子どもを、毎年、幸せで有益に社会に返すためには、これ以上の施設も、これ以上の広さも必要はないだろう。
 しかし、これですべてを言い尽くしているわけではない。この区画部屋はその目的の精神であふれるようにならなければならないのだ。子どもたちは、彼らが取り扱い方に無知なままではパンを食べない、取り扱いを知らずして靴を履くことは決してない。子どもたちは実生活の準備をしなければならないし、花を摘み、果物を食する種を大地にまかねばならない。要するに、彼らは白痴であるがゆえに、作り物の、抽象的な、本質的に約束の上での、不可解な、そういうこの世で生活させるべきではない。それはただ彼らのためだけではなく、王国のコレージュ で教育される12歳から15歳の1万の子どもたちのためでもあるのだ。このコレージュの子どもたちは、クラパックの山々 の位置する緯度は知っているが、小麦がどういう条件下で芽生えるかについては知っていない。また、それだからこそ、自由な教育が主張されるのだ!
(1)フランスでは2万人以上がいる。
セガン1843年論文の第22章で、セガンは、白痴たちの施設を論じている。その最後の部分で次のように述べていることに、かなり考え込まざるを得なくなった。「要するに、彼らは白痴であるがゆえに、作り物の、抽象的な、本質的に約束の上での、不可解な、そういうこの世で生活させるべきではない。」 現実社会と切り離したコロニーで白痴を終生生活させる、という発想なのだろうか。そうだとすれば、ぼくがこれまでセガンの白痴教育の目的だと仮説していた「市民」形成観が、根底から覆されてしまう。セガンが盲者等に対して言った「こうして彼らは人間になったのである」は、白痴には適用しない、ということか?!うー〜。
○終活のための研究的総括その9 (19世紀初頭を旅する 編)
 ぼくの研究対象のほとんどが「過去のこと」であった。「現代を生きる」ぼくが「過去」を対象とし、それを「現代の目」でとらえようとしていたきらいがある。歴史研究としては大きな誤りだ。それが分からずに、嬉々として「歴史=現代につながる過去」を拾い出して発表してきた。埼玉大学在職時代に同僚と4人で「現代日本教育史」にかかわる書物を出したが、その時に出版社編集者から「川口さん、ちゃんと歴史を学んでください」と厳しい批判を受けた。その時にはその言が理解できなかった。ああ、ぼくは歴史学者じゃないからね、などと頓珍漢な返事をしたという記憶がある。赤面ものだ。そして、その後も、「歴史」に対峙する姿勢は変わっていかなかった。「歴史的制約を乗り越えて現代に提言するもの」探しで精神を使っていたというわけだ。
 セガン研究を進めていて、セガン研究の先人の業績につねにイライラ感が付きまとっていた。そのイライラ感の大元がまさにぼく自身にあったことに気づいたのが、19世紀初頭のフランスにおける教育の課題は「文明化」にあったのであり、「発達=文化化」それ自体が独立した絶対的価値ではなかった、ということだ。かのイタールの「アヴェロンの野生児」実践で、「その子の発達はその子自身と比較されるべきである」という「現代的な感動話」も提出されてはいるが、それで「野生児は人間になった」とはみなされたわけではない。イタールの直接な実験・観察の手を離れてからも、常に監視と保護が必要なように、イタール実践の舞台のほど近くの旧修道院に保護観察人と一緒に住まわされたではないか。セガンはそれを「アヴェロンの野生児は、とどのつまり、救済院に捨てられた、そして哀れな最期を遂げた」と評している。
 こうしてぼくの、本物の「歴史探し」の旅が始まった。2008年以降のことである。