翻訳の一日/和歌山の仲間へ

○起床後足踏みで汗をかく。左脚が痛む。
○中野訳文 un enfantの訳の問題。子ども一般の意味で理解しているため、文意が摑みづらくなっている。「ある子ども」ないしは「一人の子ども」とすれば、内容的に、ああ、第一実践のアドレアンのことだなと類推ができる。
○さて、ラテン語の出現だ。bis repetita placent。中野訳文では「二度繰り返す」となっている。placentは訳抜きだ。ラテン語辞書などを調べたのだろうか。「胎盤」というほどの意味。直訳すると「胎盤を二度繰り返す」となる。さて・・・。われわれにとって「胎盤」でのことは記憶にはない。しかし、あらゆる「害・悪」から守られ育つところだ。それを二度繰り返すというのだから、楽しいことは繰り返して味わう、というような意味になるのではないか。ラテン語の格言集が欲しいところ。
セガン1843年論文翻訳 第4章 承前
次のように示すことにとどめ置く。
(1) 話し言葉の学習は子音から始められるべきであり、母音からではないこと。
(2) 一子音と一母音とを含む音節がはじめに発音されるべきこと。
(3) それらの中でも唇音がすべてに先立つべきこと。
(4) さらにつけ加えて言う、単音節は反復音節よりも発音するのが容易ではないということ。
 これらのすべては、多かれ少なかれ、一般に指導されることとは反対であるので、いくらかの考察を加えてこれが正しいということの確証を得ることは、おそらく、無駄ではないだろう。
上記(1)の主張の根拠として、ある子ども はA、I、O音しか発音せず、話すことはなく、叫ぶだけであった、ということを指摘しよう。
(2)に関わっては、同じ子どもは、ap、em、obを言うことから始めたのではなく、どちらかと言えば、pa、mê、boから始めた、と覚えている。
(3)の主張の根拠として、これらの同じ音節が唇音であり、唇同士の関係によって、二以上の唇音、maあるいはboで始まる、と言おう。paは、はじめは、強く吸うとかぞれに類似した原因とかで、特別なやり方で唇の収縮力を発達させた子どもしか、発音されなかった。
(4)の証拠となるのは、子どもたちが発する音節はみな繰り返されるということである。この最後の法則には他の理由がある。中でも、議論の余地のないものを指摘するのは、古代語法に特徴的な美、つまり音節の重複ということである。それから現代詩の何よりも豊かさ、韻。そして、フランス、イギリスそしてドイツの民衆歌の非常にすばやい繰り返し。つまり、「楽しみは幾度も繰り返される。(bis repetita placent.)」という格言によって示されるようなことだ。さらに、子どもの言葉と民衆のそれとに見られる、語尾同音の強い類似の多くの証拠をつけ加えることもできる。
○28日に山下勝也君にお会いするので、彼にレポート/手紙を託すべく、作成した。以下。
「VOICEのみなさん、こんにちは。今回も参加ができません。山下勝也氏が、東京に研究会の所用で出かけるので会えないか、と連絡をくれました。拙宅までお越し下さることも考えておられたようでしたが、猫屋敷と化しておりこのクソ暑い季節に冷房もないのでお越しいただくことをお断りし、千葉県柏市のメインステーションJR柏駅近辺で7月28日に会食することになりました。せっかくですので、小生の近況など綴ったものを山下氏に託します。
 昨年(2014年)2月17日早朝に救急車で病院に運ばれ即刻入院。脳梗塞による左半身不全と構音障害という診断を受けました。病院での治療・リハビリは同年3月末まで。この間予定が組まれていた学習院大学での退職記念のための諸行事はすべてキャンセルしていただきました。ただ、3月2日の、友人・知人による退職と新著(『19世紀フランスにおける教育のための戦い セガン パリ・コミューン』幻戯(げんき)書房、2014年)出版の祝いの会は、小生不在のまま、開いて下さいました。橘岡君が参加して下さり乾杯の音頭を取って下さったとか。前方スクリーンに小生の肖像写真が映し出されている光景は、何となく、その写真そのものも小生念願の生前葬を思わせるものがあり、それはそれで嬉しい思いをしています。
 法人(学習院)と学習院大学から、それぞれれ、主として新著を対象とした学術賞、名誉教授称号をいただきました。
 3月末に退院し、以降、自宅療養に励んでおります。昨年1年間は「要介護1」、この4月からは「要支援2」という身体状況です。昨年1年間は自分でプログラムを組んで自己リハビリに努めました。ですが、なかなか進歩しませんでした。
 この4月から、週2日の通所デイサービスで、専ら機能(回復)訓練を受けております。7月に入ってから、ぼくの通所する日(土、月)の朝の訓練開始前のいわば健康観察時に、焙煎済みのコーヒー豆をミルで挽(ひ)いてご希望の方に淹(い)れて差し上げることを始めています。もちろん無料です。けっこう喜ばれているようです。まあ、昔取った杵柄ですね。とはいえ、左側の身体が思うに力が入らず運指(うんし)も不自由ですので、ミルで豆を挽くという作業行為そのものはきつく感じます。ですが、楽しみながらのリハビリの一つだと思っています。
 現状ですが、左半身とくに左脚の運びが思うに任せず、転ぶ寸前の躓(つまづ)きがしばしば起こります。一昨日(7月24日)は、デパートのあのぴかぴかの疑似(えせ)大理石の床に左脚先を取られて(引っかけて)しまい派手に転び、左臀部(でんぶ)をイヤというほど強打し、今、その痛みを抱え込んでいます。
 さらに疲れ感が非常に強いので、立ち居(い)・歩行の姿勢は1時間持たせることが困難な状態です。ですので、外出、リハビリ散歩などは、必ず座り姿勢で休憩を取ることができるようなコース(例えば児童公園がある、とか)を選定して、行動しています。
 また、これは主治医である脳神経外科医からの受診・検査指示によって眼科診療を受けて判明したことですが、両目とも白内障加齢黄斑変性(かれいおうはんへんせい)に罹(りびょう)病しており、とくに後者によって、左目焦点部が中心部を、右目焦点部が周辺部をやられているため、きちんとものを見分けるのがやや困難な状況となっています。左右の焦点距離の違いのような感覚でものが見えると申し上げればいいかと思います。後者の病気はいわば不治の進行性病であるということですので、現状が悪化しないことを、無神論者のぼくが神に祈るような状況です。後述のように、現在進めているセガンの著作の翻訳が終わるまでは、何とか字は判読できる能力を保っていたいと切望しているところです。
 ついで、こんな身体を抱え込んで、精神をしっかりして生きなければ、自己存在感は当然のこと、家族をはじめとした諸関係を不幸感を持ってしか生きられなくなってしまいます。多くのそのような家族や人間関係を見聞きしてきましたので、ぼくがそのような存在のコアになることはもう少し、いや少しでも先延ばしをしたい、と痛切に感じます。で、ぼくにできることは何か。外へ出て社会関係の中で生きることは身体能力上不可能に近い。研究者としての道しか歩んでこなかったぼくには、どんなに非力でも、研究的に自己存在を主張することしかできません。かといって、これまでのフィールドワークのようなことは望むべきもありません。それに加えて上に述べたような目の状況もあります。
 あれこれを考えた結果、この10年余取り組んできた「セガン」を対象とし、さほど遠くない時期に(少なくとも1年以内に)、セガン『白痴の衛生と教育』(1843年、セガン31歳の作品)の全文翻訳をし遂げる目標を持つことにしました。同書はすでに故中野善達氏の訳書が出されておりますが(中野善達訳エドアール・セガン著『知能障害児の教育』福村出版、1980年)、同書の解説文にかなり多くのかつ重大な誤謬(ごびゅう)がありますことに象徴されておりますように、訳書としても完全に改める必要があると思っている次第です。同書は我が国におけるこれまでのセガン研究の多くの瑕疵(かし)の源ともなっているのです。
 現実的に言えば、私のフランス語能力には余るところでありますので、あるフランス語能力が達者だと思われる方(フランスで教育学博士号をお取りになった方)に、その方の業績の一端に加えて欲しいとお願いしたのですが、最終的には、自分には難解だし、そもそも川口がやるべき仕事だ、と断られましたので、「自分一人の脚」で歩く決意を最終的に固めた次第です。
 ぼくは、大学の同級生からも授業時内においても、また研究者仲間からも、「語学の天才的落ちこぼれ」と、揶揄(やゆ)され続けてきました。そんなぼくがフランス語原典(しかも19世紀半ば)と真正面に向かい合うなど、誰も考えないことです。セガン研究の大先達でしかも「セガンのフランス語原典を誰よりも先にフランスから取り寄せたのはこの私です」といわれるお方など、「あなたはフランス語を独習ですって?私はきちんと大学で修めましたよ。」というお手紙を下さったのですが、その真意はどこにあったのでしょう、セガン研究上のそのお方のお書きになったことについて、疑問、批判をしたためた書簡を差し上げたご返事の主文が、たったその1行であったのです。
 VOICEの仲間にとっては、「セガン」はなじみのないことでしょうから、「セガン」がどうたらこうたらとくどくどしい説明を、まずご理解いただくのに相当ご苦労をお願いしなければならないことになりますので、それはいたしません。知的障害者は社会にとって迷惑な存在、無駄飯くらいの存在という「排斥的常識」が横行する現在にあって―じつに悲しいことです―、20代半ばから、知的障害者の社会的自立のための実践をいわば独学で進め、その成果を実らせ、今日の知的障害教育の出発点を創りあげた人の理論と実践をきちんと現代に再現することは、意味のないことではないと思っている次第です。
                     2015年7月盛夏の熱に包まれる柏の自室にて
                                   川口 幸宏 」